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愛と所有の概念


本日の主張はこうだ。
「愛とは、与えるものだ。」





突然だが、僕はイマヌエル・カントの思想が好きだ。
(好きではあるが、専門家ではない。)


我は孤独である。我は自由である。我は我みずからの王である。
イマヌエル・カント


カントは、「自律」と「他律」という言葉を用いて
個人の行動規範について論じている。





人間の自由は、「自律の上で成り立つ」


カントは、自らの行動法則を知り、
それに自ら従う理性的な行動に人間の本来の姿を見出した。

自分自身がどんな状態が好ましいと感じていて
その理由を自分で理解しており、人に説得し実践できる状態、とでも言おうか。

人間は本来、各個人の中に持っている心の声(アルケミスト風w)に従い
自らの理性によって行動を選択できるはずである。

この考え方を、「自律」。



一方、「他律」。
前述のように、人間は本来
自らの理性を働かせ、道徳的な行為を選択できるはずである。

しかし、「道徳上、最上の原理」であるはずなのに、人間は欲求(⇆理性)にかられることがある。
その時、人間は欲求の対象に対し、行動の根拠を求めている事になる。

外部に行動欲求をかられている=自分自身の本質的に求めていることではない。
そのような状態のことを、「意志の他律」とよび、道徳原理としては認められないと主張した。



日常生活において、現代において。
自身の日々の生活において、よく自分自身葛藤している時がある。

本当はやりたくないことだが、やらないという選択をとることも可能だ。
だが、一旦やっておこう。(〇〇のために。)

完全に「意志の他律」状態である。笑






愛と所有の概念


やっと本題。
ここから先はカントさんは関係がなくなる。

愛とは見返りを求めないことだ。
愛とは許容することである。
愛とは無償である。

「愛」を抱いている人は少数派だ。
多くは、どこかで「他律」の概念がまとわりつき、
その本質は「所有欲」のように感じる。


僕は「所有」している。
その事実に気がついてしまってから、
自らの道徳上の最上の原理と戦っている。

「なぜ、こんなにも大切な人たちを、愛せないのか」
自分自身との格闘で、こんなに難しいことはない。


「愛」の理想の姿が語られ、皆そんな理想を追いかけている。
みんな、自分は理解している、と思っている。

しかし、身近な大切な人たちに対し、欲求を覚える。
〇〇であって欲しい。と





人間の所有物に対する執着の根元


サンクコスト(埋没費用)効果という心理学的な現象がある。
サンクコストとは、既に支払ってしまい取り返しのつかない、労力的・時間的・金銭的コストのことである。
人間は無意識のうちに、サンクコスト(既に支払ったコスト)を取り返そうという意志が働くと言われている。

大行列に並んで食べた餃子
莫大な時間をかけて作ったプレゼン資料
大金・長年を貢いだパートナー

人間は、それらを大切に思ってしまう。
捧げたコストの分だけ、自分には価値のあるものだと誤認し、執着し、手放せなくなってしまう。
そして、なぜそんなに執着しているのか聞かれるとこう思う。

「(あれだけの〇〇(コスト)をかけたから)
 自分にとって必要(今後いいことが)あるに違いない」






では、どうするか


愛と所有の陶酔とを混同してはならない。所有の陶酔は最悪の苦しみを伴う。人々は愛に苦しめられるのだと思っているが、そうではなく、その反対のものである所有欲に苦しめられるのである。
サン・テグジュペリ
愛とは感性に属する事柄であって、意欲に属する事柄ではない。だから、欲したからといって愛せるわけではないし、ましてや愛さねばと思ったから愛せるわけでもない。
イマヌエル・カント


自分の人生を生き、愛した人に無償の愛を与える
どこまでも自分の道徳に従い生きることを誓う

現代のイデオロギーは異常だ

結婚という行為に、愛は必要条件ではないが、結婚こそが愛だと語られる
パートナーの存在自体は、愛の手段でも目的でもない
愛は、自分自身の幸福に寄与するかもしれないが、そこに他人は一切関係がない



「愛とは与えるものだ」



Besos

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