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第7話 旅する朱色のセーター


お腹の底からマヤと歌っていたら、すっかり身体にエネルギーが巡った。お腹が痛くてうずくまっていた私はどこへ行ったんだろう?

ヒンディー語の唄を教えてくれた子供たちの家に、夕方一緒に行こうとマヤが誘ってくれた。

フリーダムと沐浴したガンガーの川辺の近くに、子供たちだけでやっている小さなチャイ屋さんがあると言う。そこに子供たちは住んでいるらしい。

マヤはヨガのクラスが終わったら、私の部屋をノックすると言って、曼荼羅柄のヨガマットを持ってウインクして出て行った。マヤは太陽みたいに明るくて、お母さんみたいな強い優しさもあった。本当にいい子だなあと改めて思う。私にもあんな優しさが、、、あるんだろうか。

マヤがヨガに行っている間、一人のんびりと絵を描くことにした。小さな窓の外からはスパイスとお香の匂いと共に、テンプルからの鐘の音がカランコロンと聞こえてくる。たまに牛が低い声で鳴く音もする。バイクが通り抜ける音、時々通る車のステレオから神様への讃歌(バジャン)が大ボリュームで鳴り響いたり。ああ、ここはインドなんだ。と改めて耳と鼻で感じる。不思議とうるさいとは感じなかった。

水彩絵の具をとくのに、マヤが持ってきてくれたペットボトルの水を使おうとして、ふと手を止めた。そうだ。ガンガーの水を使おう。この前の沐浴で汲んできていた‥聖なるガンガーの水‥を少し小さなお皿に流し入れた。青の絵の具とガンガーの水を混ぜ合わせ、真っ白な紙に青い絵の具をすーっとひいた。ガンガーの水と混ざったその水色を見た時、なぜか懐かしさが込み上げて、魂の奥が震えるような感覚があった。

ああ!!

いつだって感覚は私に何か訴えてくる。けれど、それを言葉にしたり、頭で理解することは難しかった。ただ、そこに感じる世界があるだけ。ただただ、それは私にとっての真実だった。

絵を描いていると、瞑想のような静けさに包まれる。静かに静かに、自分の内なる世界に沈んでいく時間。さっきまで聴こえていた町の音も、なぜか聞こえてこない白い世界だ。どんどん生まれてくる線を自由に描いていった先に、不思議な絵が浮かんできた。葵い色をした、それは聖なるガンガーから顔を出した、水の神様のような横顔だった。

私はその絵に浮かんできた神様の横顔を、ベットに横たわってしばらくじーっと眺めていた。窓から差し込む柔らかな日差しに透かしてみると、その神様はとても美しかった。

空間がどこからか流れてきて、どこかにまた流れていくようだった。それはこの街の真ん中に流れるガンガーと同じリズムのように思えた。時を刻む時間はどこにもなくて、今ここという瞬間の波が永遠と続いているような感覚。

私の泊まっているアシュラムには一階にはヒンドゥーの神様が祀れれていて、朝晩とお祈りの時間がある。部屋は全部で20くらいはあるんじゃないかな。ヨガをする大きな部屋もあって、インド人のヨガの先生が来て朝クラスを開いてくれているけど、参加は自由だ。私の部屋は2階にある4畳半くらいの一室。通りに面したテラスにはたまに猿が来るので、窓の開けっぱなしは注意だ。部屋は古いし狭いけど、ペンキで塗られた水色の木の扉と、クリーム色の壁の配色センスがなんともインドらしくてかわいい。部屋にはベッドが一つあるだけ。何年前からずっと同じマットレスを使っているんだろう。という、年期の入ったベットは薄く硬い。そこに私はインドで買ったお気に入りの手染めの赤い布をかけて使っている。どんな部屋でも、自分の大好きな布でベットを包むだけで自分の居場所のように感られるのはなぜだろう?たまに屋上で自らマットレスを干している旅人も見かける。きっとダニを気にしているんだろう。私はまだ刺されたことはないけれど、刺されてとてもひどい状態になっている旅人には会ったことがある。こればかりはロシアンルーレットのようなものだ。トイレと水のシャワールームは部屋の外で、みんなと共同だ。東京にある私の部屋には溢れるほどのいろんな荷物があって、それを今ここでイメージすると、なぜか全てが白黒になり重たく感じられた。その固まった物に囲まれて、私はどこに何があるのかも把握できずに、いつも何かを探しては時間に追われ焦っているように見えた。

携帯もパソコンも時計もない生活をしていると、今日が一体何日なのかも、何曜日なのかも分からなる。あんなにも誰かといつも繋がっていないとどこか不安だったのに、今では携帯がないということが心地よかった。必要以上な繋がりはなくなり、もっとシンプルに、必要な物だけが今ここにあった。すると不思議なことに、すべては私の身体のリズムが中心の暮らしへと変わっていった。起きたい時に起きて、お腹が空いたらご飯を食べて、やりたい時にやりたいことをやった。そして私の身体のリズムは、いつのまにか朝陽とお月さまと合っていくようになった。朝がくれば目が覚めて、夜が来れば眠くなった。そんな風に身体のリズムで生きれたこと、今まであっただろうか?いつも何かに追われて、もっともっと頑張らなくちゃって思い続けていたあの暮らしは、何だったんだろう。

今まで神さまはいつだって私に神聖な時間を与えてくれていたはずなのに。それを私は違うことにばかりに使おうとして、無視し続けていたのかもしれない。でも、お金を稼がなくちゃ生きてけないし、何かしないと生きることすら許されないんじゃないかなって、ずっとどこかで恐れていた。でも今ここで、私は何もしてないけど許されているし、生きている。許してなかったのは誰なんだろう。神さま?仏さま??

「違う、それは自分の心だ。」声に出してみると、自分の声の小ささに気づく。インド人のような張りのある大きな声が、わたしには出ない。小さな小さな、私の声。

インドと行っても、冬のリシケシュは日が沈むと寒い。私は窓を閉めて黄色いウールのショールをインド人のように頭からかぶり、朱色のセーターを着た。あまりにも寒い日、慌ててガンガーの通り沿いにあったネパール人が営む、小さな古着屋さんで買ったものだ。ここで手に入る冬用の洋服は殆どが海外から送られてきた古着か、又は旅人たちが置いて行ったであろうものだった。私が選んだ朱色のセーターのタグを見たらスイス製だった。袖のところに小さな穴が空いていて、それを見つけたネパール人店員の12歳くらいの女の子が、少し安くしてくれた。お金を払って、寒かったので慌てて朱色のセーターをその場で着た後、彼女は私に椅子に座るようにジェスチャーした。私のしばらくちゃんと手入れしてなかったボサボサの長い髪の毛をビューティフル!と言って、丁寧に櫛でとかし、彼女とお揃いの三つ編みにしてくれて、仕上げに飾ってあった白い花をひとつ刺してくれた。彼女はあまり喋ることはなく、ただただずっとニコニコしていて、私も同じようにずっとニコニコしていた。ニコニコしているだけで彼女と私の友情が成立した。わたしは日本から持っていていたカラフルな金平糖を何粒か彼女にあげた。お星様みたいなその飴を、彼女は目をキラキラさせてとても喜んでくれた。それからそのお店の前を通るたびに彼女がいたら会いに行った。いつも変わらないニコニコで彼女は私を迎えてくれた。誰も知らない国に来て、誰も知らない町に来て、少しずつ知っている人が増えていくことはなんだかとても不思議で、そしてそれはとても嬉しいことだった。例え言葉が通じなくても、ニコニコとニコニコが共通語だった。

このセーターには、そんな彼女との思い出が一緒に吸い込まれていた。どこかの誰かが着ていらなくなった服が、スイスからインドに流れ着いて、日本から来た私がそれを見つけて、そこにまた新しい物語がスタートしたのだ。新しい服を何枚買ってもすぐ他の洋服が欲しくなっていた過去の自分を思い出す。今はたった一枚しかないこのセーターが、暖かくて、愛おしくて、仕方なかった。

絵も描き終わった後、私はその袖の穴を糸でちくちく縫いながら、マヤがヨガのクラスが終わり、この部屋のドアをノックする時をゆるやかな心で待つことにした。

縫い物をしながら、この前テラスで朝ごはんのバナナとチャイを飲みながらのマヤとの会話がふと浮かんできた。美味しそうにチャイを飲むマヤの笑顔が可愛くて、思わず

「私はマヤのスマイルが好き。すごくいい笑顔」

そんなことを言ったら、私の乾燥した顔を細く温かい指先で包みながら彼女はこう言った。

「それはあなたの心がクリアだからだよ。あなたの心が美しければ世界は美しくみえるもの。あなたの心がもし曇っていたら、私の笑顔が遠くに感じたりもする。わたしの笑顔が美しいんじゃない。あなたの心がそう見せてるんだよ」

そんなことを言って、マヤはクスクスと笑った。

すべては自分のハート次第かあ。
毎日を楽しく過ごすが、暗いままに過ごすのか、すべては自分の心が決めること。そう、誰のせいでもない。

「例えば都会の仕事場で、とーっても忙しいとするでしょ。頭の中はストレスでいっぱいなの。でも、同じ仕事でもワクワク楽しくやってる人もいる。その時その人は自由を感じている。例えばインドに来てガンガーで瞑想をするとする。その人は自由を味わうためにインドに来たのに、頭の中では色々心配が手放せないとする。こんな風に休んでいていいんだろうか。こんなことして、帰ったらお金は足りるんだろうかと、ずーっと考えているの。その時その人は自由では決してない。目の前に美しいガンガーがあるというのに。全てを取りこぼしているのよ。その人は結局、どこにいても自分を檻に閉じ込めてしまうのね。全ては内側の世界の出来事なのよ。だから今、あなたが私の笑顔を見て美しいって思ったその心は、今とても美しい世界を感じている、あなたの内側の世界を表しているのよ。」

するとマヤは自分の手を胸に当てて目を閉じて小さく呟いた。

「目を閉じて。そして、心の目を開いて」

私もマヤを真似してハートに手を当て同じように目を閉じる。すると耳のそばでティーンティーンというティンシャの音が響いた。その音は頭の中に響き渡って、一気に意識を吹っ飛ばした。

その音の余韻が、ただただ身体を心地よくさせた。朝の陽の光がぽかぽかと背中を包みあたたかいと感じた。風が吹いて、髪の毛が頬をくすぐった。甘いチャイの香りが鼻を掠める。身体はちゃんと世界を感じてる。とてもとても繊細に。でも結局は、心の瞳の世界の中で私たちは生きているのかもしれない。

心の瞳の世界で。。。


「イタッ。」

セーターを縫っていた針が指をちくっと刺した。気づけばそこは私の小さな部屋だった。過去を思い出している時、私はまるでその世界にいるみたいだった。

今ここに身体はあるのに、意識だけはその世界に完全に飛んでいってしまっていたみたいだ。指先から溢れてきた血を舐めたら、生きてる味がした。溢れる血を見てると不思議な気持ちになる。生まれてからずっと一緒なこの身体。でも私の皮膚の内側の世界を、私は見ることもなければ、どこになんの臓器があるのか、身体の構造すらもちゃんとわかっていない。自分の身体のことなのに。自分の心のこともまだまだわからないことばかりだし、自分の身体のことすらもよくわかってないなんて。

一体私ってどこから来てどこへ帰っていくんだろう?


気づけば夕陽はもう沈みかけていて、部屋は急に薄暗くなり始めていた。マヤはまだ来ない。もしかしたら他に流れが来て、今日はもうここには来ないかもしれないとふと思った。

そろそろ夜が降りてくる。

お腹も空いてきたし、なんだか急に自分が空っぽになってしまったような気がして心細くなった。

このままもう少し待った方がいいかな。それとも夕ご飯を食べに行こうか?連絡手段もないしなあ。電気をつけようと立ち上がった瞬間、ドアの向こうに誰かが来る足音が聞こえた。

マヤだろうか?心の中がぱあっと明るくなる。

「ナマステー」

それはマヤではない、低い男性の声だった。



つづく



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