自ら機会を創り出しSUUMOの営業へ【連載⑦】さて44歳リクルートを辞めて
東日本大震災がある意味で、全ての再スタートだった。
2011年の東日本大地震は、個人的にも大きな出来事でした。まず被災したのは東京駅に隣接したグラントウキョウ サウスタワーの32階。会議中に大きく揺れて、目の前のビルがしなりこちらにぶつかるような動きで一瞬「あ、死ぬのかな」と思いました。
その日は電車が動かず、同僚達と階段で下に降りて、中華を食べてエレベーターが動かないので歩きで30階のフロアに戻り会議室で寝ました。次の朝、自宅に帰れたのは14時過ぎ。
まだ余震に怯える家族をなだめながらお風呂に入った後にNHKの原発爆発のニュース。
たまたまですが、「脱原発」をリクルートとしても推進すべしというテーマで「経営への提言」という小論文を会社に提出していたこともあり、原発についてはかなり敏感に反応しました。
事故を知った直後に、西への避難を妻と決めて文字通り「着の身着の儘」、炊飯器のスイッチもつけたまま、車で走り出したのが3月12日の夕方でした。宮城の両親と連絡が取れて北陸を伝い車で宮城に入ったのはその2週間後。
その後様々ありつつ、妻の実家に身を寄せた後の、家族の避難移住と僕の数ヶ月の東京単身赴任を経て、2011年の10月に関西の注文住宅営業部に一営業として転勤・赴任しました。
リクルートには、わがままを言い放題で、それを受け止めてくれたことにも大きな感謝をずっとしてきました。決めたことには、とことん寄り添ってくれました。
二度めの「自ら機会を創り出し」が原発事故によって導かれたのでした。この事故が無ければ、移住もしていないし、SUUMOの営業もしていないし、発酵食堂カモシカも立ち上げていなかったかも知れない。
→ ともあれ、関西の注文住宅領域の一営業として再スタート
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