読書記録その1 『舞姫』 森鷗外
記念すべき記事第1号……は、自己紹介にしてしまったのですが、ともあれやっていきましょう。
コロナ禍での思い出
この『舞姫』、教科書に載っている文学作品の中では、私には少し思い出深いものです。内容に入る前に少しだけ書かせて下さい。わりと長いので、飛ばしていただいて結構です……。
さて、コロナの影響で、3月から全国の学校という学校が閉校になったのは皆さんご承知の通りです。そのため、授業カリキュラムに変更が生じました。
私の学校では、3年生2学期の現代文の授業がすべて演習に変わりました。教科書を使うのではなく、共通テストなどの受験本番に向けた中身をやっていこうということですね。以前から予想されていたことではありましたが、私は心の中で咽び泣きました。何故か?
ひとえに、『舞姫』ができなくなったからです。
己の自己解釈では限界があることを、2年次の『山月記』で思い知った私は、ただ『舞姫』を授業で受けたいがために3年になったといっても(ほとんど)過言ではありませんでした。だのに、肝心の『舞姫』ができないようでは、一体何を楽しみに学校へ通えというのか。
幸い(?)私は日本史も好きなので腐らずに通いましたが、『舞姫』ができないことには変わりありません。そこで、私は現代文の先生に直談判しました。(ちなみに私は関西人です。)
「先生、なんで『舞姫』やってくれへんのですか? 私めっちゃやりたいんですけど」
「永井さんやったら2人でやってもええで」
2人でやることになりました。マンツーマンです。期末考査日の放課後、一から十まで2時間みっちり教えていただきました。今回の感想にも、先生の解釈が多分に含まれていることと思います。
正直、授業でやるよりも貴重な経験だったかもしれません。とても楽しい2時間でした。
長々と駄弁ってしまいました。それでは、本題へ行きましょう。大きいポイントは2つです。目新しい解釈などではございませんが……。
①変われなかった主人公
本作の主人公・太田豊太郎は、頭は良いけれどもどこかハッキリしない人物です。芯が無いというか、どことなくぼんやりした印象でした。
その理由は、彼がドイツへ渡ってからの行動に見ることができます。
渡独した豊太郎は、初めて外国の気風に触れます。そこで、今まで自分が置かれてきた日本の封建的・受動的な姿勢から、能動的な「自我」に目覚めました。それまでは「人に」褒められるから・「人に」勧められるから勉強していたのに対し、「自ら」学びたいことを見つけてそれに没頭していったのです。
しかし、それは本当の意味での「自我」ではありませんでした。天方伯とのやり取りなどからそれは見て取れます。
自分の求める学問に耽るあまり、上司の不興を買ってしまった豊太郎。これは一見、自分を「活きたる法律」にしようとする上司の思い通りにはならないぞ、という強い「自我」を感じます。
しかしながら、友人の上司・天方伯相手には態度が一変。「私に同伴して、日本へ帰らないか」という天方伯の言葉に、「反射的に」頷いてしまうのです。豊太郎がヒロイン・エリスを捨てた瞬間です。
ここを「自我」の観点から見てみると、「日本的な受身の姿勢から脱却できていない」と言えるのではないでしょうか。上(天方伯)→下(豊太郎)というトップダウンの流れができてしまっています。「反射的に」というのがポイント。言われた内容をよく考えないで、とりあえず返事をしてしまっているのですね。これでは結局、封建的な形のままです。
つまり、豊太郎に「自我」が芽生えたというのは見かけのみの話で、本質的には何も変わっていないということです。
一度は、官職を捨ててまで己の道を進もうとした豊太郎。しかし、その決意が貫かれることはありませんでした。この部分が、豊太郎が優柔不断でハッキリしない人物に見える理由かなと思います。
②「後ろめたさ」の正体
豊太郎は、うら若い踊り子・エリスと恋仲になります。しかし、「君を捨てはしない」というような睦言をささやく裏で、天方伯についていく話が決まってしまいます。この時はまだロシアに行くだけだったのですが、出発の日の朝早く、豊太郎はエリスを彼女の母の知り合いへと預けます。何故かと言えば、天方伯たちもいる停車場に来られたくなかったからです。少しだけ引用してみましょう。
出で行く跡(あと)に残らんも物憂(ものう)かるべく、又停車場にて涙こぼしなどしたらんには影護(うしろめた)かるべければとて、翌朝早くエリスをば母につけて知る人がり出(いだ)しやりつ。
2行目に、停車場で涙をこぼされると後ろめたいと書いてありますね。この「後ろめたさ」は、果たして何に対するものなのでしょうか。
普通の感覚では、「エリスが悲しんでいると、(彼女を残して旅立つことに)後ろめたさを感じる」という風に捉えられます。筋は通っていますし、豊太郎の、エリスに対する愛情も感じられますね。
では、こちらはどうでしょうか。
「エリスが悲しんでいると、(天方伯や相澤に「本当に彼女と縁を切れるのか」と疑われて)後ろめたさを感じる」
豊太郎は、友人・相澤謙吉に「天方伯についていくならエリスと別れなければならない」と言われていました。エリスと別れないなら、帰国の話自体消えてしまいかねない状況です。そうなれば、もう二度と祖国の土は踏めないでしょう。しかし、彼は未だに腹を決めきれていませんでした。その結果が上のセリフです。
エリスをわざわざ母親の知人のもとに預けたところに、豊太郎が、エリスにはどうやっても来てほしくないという強い思いを抱いていたことが窺えます。単純にエリスを残していくことが後ろめたいのならば、「見送りはいらないから」と一言言って、そのまま家にいさせておけば良い話なのです。この時、エリスは豊太郎の子どもを身籠っていました。ただでさえ体の強くないエリスをいたわるのなら、家で安静にさせておくのが普通ではないでしょうか。
それを、あえて知人のもとへ「出発の日の」朝に預けたという部分に、豊太郎の恣意を感じずにはいられません。個人的には、豊太郎が一番「嫌な男」に見える場面です。
文語文の良さ
以上、私の思う『舞姫』解釈を2つ述べさせていただきました。ここからは、「文語文」について、少しだけ書こうと思います。
上記の引用からも明白な通り、『舞姫』は文語文で書かれています。古文のようで、慣れるまでは読みにくいことこの上ないのですが、慣れてしまえば純粋に言葉の響きを楽しめます。口語文よりも音読が楽しいです(笑)
私は、『舞姫』の中で一番好きなセリフがあります。
相澤から、豊太郎がエリスを捨てて日本に帰ることを聞かされた際の、彼女のセリフです。
「我(わが)豊太郎ぬし、かくまでに我(われ)をば欺(あざむ)き玉(たま)いしか」
この「欺く」という言葉にゾッとしました。「裏切る」や「騙す」ではなく、「欺く」……。普段そこまで聞き慣れない言葉だけに、文語文の響きも相まって、より一層恐ろしく感じられたのです。
結局、『舞姫』とは
総括、まとめです。
・豊太郎は日本の伝統的姿勢から抜け出せなかった。
・エリスへの態度は単なる好意ではなく、裏があった。
・文語文はいいぞ!!
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。今回はここまでに致しましょう。それでは。