生死を越える姿を「いけばな」から学ぶ
花は生死を越えている・・・
切ってもそのまま
蕾は花を咲かせます。
その姿は、悲壮感もなく
愚痴や恨めしさもありません。
ただ蕾だから
花を咲かせるだけなのです。
《花材》 スカシユリ、秋明菊、古代米、ワレモコウ
「当たり前だよ。だって、花なんだから、咲くさ。」
と、思うかもしれません。
そう、花だから咲くのは当然ですね。
でも、よくよく考えてみると
その当たり前は、今の世の中ではとても難しいのではないでしょうか?
人が何故、生まれて、何故、死んでゆくのか・・・
これも当たり前のことですが、
なかなか当たり前として、死を受け入れられる人はいないのではないでしょうか?
秋明菊
花は蕾をつけたら咲くという天命があって、
ただその天命を完うすることだけに存在しています。
たった一つの天命ですが、それを完うする姿は多くの感動をもたらしています。
あなたが、今日、辛いことがあって、
肩を落として家へ帰る道に、フッと小さな花を見つけた時、
止まっていた呼吸が溢れてはじめて、
凍っていた血流が流れはじめて、
心や身体が温かくなりませんか?
どくだみの花
「あぁ、この小さな花たちは、ずっとここに咲いていたんだなぁ。」と、笑顔にさえなるでしょう。
花たちによって、辛いという自分の想いから離れることができるのです。
そして、辛さや悩みは自分自身ではなかったのだと気がつき、生命を実感することができるのでしょう。
言葉を持たない花や木々から、気づきというかたちで教えられるのです。
やがて、枯れてゆく花たちは、人が見ていても、見ていなくても咲いて種を残してゆきます。
恐れもなく
迷いもなく
苦悩もなく・・・
天地自然の姿は、人類の姿でもあるはずです。
だから、本来は人も恐れや、迷いや、苦悩もなく、天命を果たそうとする存在だったのでしょう。
でも、そうではなくなってしまったので、天地自然は天変地変で方向が違うことを教えてくれている。
そして、道端の小さな花たちに本来の姿を現して、思い出させてくれようとしているのではないでしょうか?
いけばなでは、生ける瞬間、瞬間に木々や花たちと向き合っていると、生命の不思議さに気づかされます。
でも、それは自分の中にもあることなのだと実感した時、生死を超えたいけばなになり、天地自然との調和のある作品となるような気がします。
続きは、さらなる探究録で。
《花材》雲竜柳、アルストロメリア、ドラセナ