人はみな「自分」という名の精神病棟に入院している患者(#97)
タイトルの字数が短歌。
映画「カッコーの巣の上で」を見直したらめちゃくちゃよかったのでその話。断片的にネタバレあり。
エトガル・ケレットが昨年来日したときのイベントで好きな映画を聞かれて、1975年公開の同作を挙げていた。自分も今まで2回ぐらい見た記憶があるが、改めてDVDを購入してみた。
有名な作品なので詳細な説明は省くが、ジャック・ニコルソン演じる主人公が刑務所の強制労働を逃れるために精神病を装って精神病院に入院して、権威的な病院の体制に反抗しながら、周囲の患者に影響を与えていく映画である。
まずこの設定が構造的にズルくて(と言ってしまおう)、自由を奪われて抑圧された登場人物たちの物語だから、フツウの行動を取っているだけで人間の尊厳を回復するような感動的なシーンに見えてくる。バスケをするシーンとか、ワールドシリーズを見せてもらえず妄想でエア実況して騒ぐシーンとか、バスで脱走して釣りに行くシーンとか、大好きなシーンがいくつもある。もちろん有名なラストシーンも。
そして、重要なポイント。実は、病院の患者たちの多くは強制入院ではなくて自主入院(voluntary)だと明らかになる。
つまり、自由がないと不平を言っている患者の多くは、病院を出たければいつでも出られるのに、自ら病院の中に留まっているのだ。
重要なポイント、と言いつつ、今回見直すまで、そんな設定があったのを完全に忘れていた。けっこう長い時間使って説明される設定なのだが。
映画でもマンガとか小説でも、名作と呼ばれるものって、「あらすじをまとめるときには触れられないし、見る側も時間が経つとたいてい忘れてしまうけれど、実はとっても重要な設定」を持っているのかもしれない。
自分が好きな別の作品の例で言うと、たとえば岩明均の「寄生獣」なんかは「寄生獣は繁殖ができない」という重要な設定を持っている。
で、「カッコーの巣の上で」の自主入院という設定はなぜ重要なのか。
もし強制入院ならば、そこに暮らす人々は独裁国家で暮らす市民みたいなものだ。悪いのは体制であり、ジャック・ニコルソン演じる主人公マクマーフィは「反体制」的なヒーローであり、革命家だ。
けれども、自主入院ならば、問題の所在を示す矢印は急に逆を向く。なぜ登場人物たちは勇気を出して外の世界に踏み出せないのか。現状に文句を言いながらも、「じゃあ現状を変えろよ」と言われると黙ってしまうのはなぜなのか。
罪のない被害者だった登場人物たちが、急に私たちと変わらない普遍的な存在に見えてくる。たぶんこれが、超地味なのにこの映画が50年近く経っても見られ続けている理由なんじゃないか。
エトガル・ケレットは好きな映画としてこの映画を挙げたときにあるシーンを紹介していた。ジャック・ニコルソンが、病院から脱走をするためにシャワー設備を持ち上げようとして、まわりに「絶対無理だよ」と言われるシーンだ。彼は全力を出すが結局うまくいかず、傍観していた周りの患者たちに捨てゼリフを吐く。「少なくとも俺はやってみた」
ちょっとぼかして書くが、ラストシーンでは、ある人物が自由の象徴みたいな行動を取る。そして、それを見たクリストファー・ロイド演じる患者のひとりは、喝采を叫んだ後で、急に真顔になる。これも今回見直して気づいたのだけど、それって、「あいつは一歩踏み出した。じゃあ俺はどうするんだ?」と突きつけられたからではないだろうか。
(気になる方は、YouTubeで”cuckoo's nest ending”とか探すと該当シーン出てきます)
アウシュビッツ生存者の心理学者であるエディス・エガーは、著者”The Choice”の中で、自分の身に起こる苦難は選べないけれど、自分の心の囚人でいるか、解放するかは選べる」と語っている(参考拙記事)。
人はみんな「自分」とか「自意識」という精神病棟の自主入院患者なのかもしれない。
ちなみに、Ken Keyseyの原作を読み始めてみたら、映画の主人公マクマーフィではなく、チーフの目線から語り出される小説だった。