優しさとはあきらめである - 「春にして君を離れ」by アガサ・クリスティー(#102)
メインのブログに書いた記事から転載。
アガサ・クリスティーの「春にして君を離れ」を初めて読んだら最高の小説だった。全ページ全センテンス全ワードが好きだ。ポアロは登場せず、殺人事件も起きない小説であり、発表当時はクリスティーが名前を隠して別名で発表していたらしい。
けれどもこの小説は推理小説よりもずっとミステリーでホラーでスリラーだ。なぜなら「自分は他人の気持ちを理解できていないのではないか」という恐怖に訴えかける小説だから。以下、ネタバレありの感想である。
あらすじ
主人公のジョーン・スカダモアは3人の子どもを育てた、弁護士の妻である。ロンドンからバグダッドへ娘を訪ねた帰りに、彼女は学生時代の旧友に偶然再会する。みんなの憧れだった旧友はいつのまにか見すぼらしい見た目になっていた。旧友は自分の人生の不遇について語る。自然と優越感を抱かずにはいられないジョーン。けれども、最後に旧友はジョーンに対して、あなたは人生に満足なの?といった意味の問いかけをして去っていく。
ここから、ジョーンは自分のこれまでの人生に対して急に違和感を抱き始める。砂漠の真ん中で足止めをくった電車の中で、たった一人で。
旧友であるブランチ・ハガードは、メフィストフェレスであり、ジョーカーだったのだ。「お前は本当に自分が思っているほどよい人間なのか?」という揺さぶりをかけてくる悪魔である。
迫られる決断
ジョーンは自分の人生の様々な場面を回想する。怖いことに、読み進めるうちに読者はどんどんジョーンに感情移入できなくなってくる。自分では良い妻・良い母のつもりでいるかもしれないけれど、実態は相手に自分の考えを押しつけているだけだった事が暴かれていくのだ。「ときどきお母さんって、誰についても何も知らないんじゃないかって思う事があるんだ・・こう言ったのはトニーだった」、ジョーンは息子のそんな言葉を思い出す。
自分の心のパンドラの箱を開けてしまったジョーンは、苦しんだ末に、ひとつの決断を迫られる。旅から帰ったら、家族に自分の誤りを懺悔して、人生をやり直すべきだろうか。それとも、何事も無かったように元の生活に戻るべきだろうか・・
優しさとはあきらめである
そして、ここから物語の重要な部分のネタバレになるが、ジョーンは結局、いつもと同じように家族と接する道を選ぶ。選ぶ、というよりは、現実に流されて、「人生をイチからやり直したりなんてしない」という消極的だがとてもリアルな判断をして、元通りの「良き妻・良き母」を演じ始める。
この判断が、本書の恐怖であり、魅力だ。ジョーンの判断は、本当の自分と向き合うことや、周りの家族と向き合うことから逃げているようにも読める。若いときにこの小説を読んでいたら自分もそう思ったかもしれない。
けれども、中年になってから読むと、このジョーンの判断は、もっと両義的に思える。彼女は自分の過ちを知り、ついでに夫が抱えていた秘密も理解してしまう。けれども、それを全てぶつけてお互いに血を流すのではなく、たとえ仮面を被ったままでも、穏やかで幸福な日常を続けることを選ぶ。
これは、一種の優しさではないだろうか。その後のジョーン・スカダモアは小説の中に描かれてはいないが、元通りの「良き妻・良き母」を演じていても、彼女はやはりそれまでとは異なる人間だと思うのだ。自分の正しさを信じて疑わない人間から、自分の過ちを知る人間へと成長したのである。ただし、それを全てさらけ出して夫の秘密も暴けば、家族に惨事が訪れると自覚している。人生をイチからやり直すにはあまりに歳を重ねている彼女は、居心地の良い環境へ安住する選択をする。優しさとは、「相手と心から分かり合う」ことをあきらめた敗者が自己の利益を確保するための撤退戦略なのだ。
「春にして君を離れ」は、こうしたリアリティが中年の身にヒリヒリとしみる苦くて甘い傑作だ。作中でジェーンは「蜃気楼、蜃気楼、大切な手がかりのような気がする、この言葉」とつぶやく。世間的には成功と見えるような人生を歩んでいても、現実は砂漠の蜃気楼のように不確かだ。「春にして君を離れ」(Absent in the spring)というタイトルでありながら、「でも、今は十一月だわ」と作中で語られるのも、現実の二重性を表現する効果を挙げていて素晴らしいと思う。
作中では、忍び寄る第二次世界大戦とナチの影が示唆される。この作品が発表されたのは1944年だけど、ジョーンがロンドンに戻るために立ち寄る世界遺産都市アレッポは現在、2020年まで10年続いているシリアの紛争でめちゃくちゃになった。アガサ・クリスティーも予想していなかっただろう。現実は寄る辺なくて不確かだ。