作ったことない奴が語るな論|映画評論家の存在意義
映画評論家に対して、よくある非難は、
「映画を作ったことない奴が語るな」といったもの。
このような非難は、自分の好きな作品をバカにされたと捉えて
反発するような動機以外に何か、論拠があるのだろうか。
映画について語るのは、必然的な行動である。
映画から受けた感動や体験を誰かと共有するのは、ごく自然なことで、
好意的なものであれば許され、否定的なものは許さない態度は、
「誰のための映画なのか」という疑問が生じる。
映画製作者とそのファンのためのものと限定するような姿勢は、
逆に、視聴者層を拡げる映画評論家の必要性を肯定することになる。
映画批評の存在意義について映画評論家が解説した記事がある。
国際批評フォーラム「映画批評の現在、そして未来へ」https://filmex.jp/2019/news/critic_forum-2
カンヌ、ヴェネツィア、ベルリンの3大映画祭において、
国際映画批評家連盟賞は、先進的な作品を報奨することを目的として
設けられている。
映画と社会を繋ぐ
そもそも映画自体が社会的な存在である。※1
しかし、映画が社会性を持つには批評が必要である。
ほとんどの映画のキャッチコピーも、批評である。
その映画の価値について語ることが、社会における映画の位置づけとなり、
映画を必要とする人への橋渡しとなっている。
「大ヒット」「全米NO1」「今年一番」といったものや、
作品のテーマを端的に表したメッセージも、視聴前の観客に対する問い
となっており、それに呼応する形で観客は視聴の行動に移る。
作品について批評しなければ、これらのメッセージは作成できない。
評論と感想の違い
評論は「一般化された事実」を論拠にして語られる。
映画史を念頭に、過去の作品との関連や社会情勢、製作の背景などを
考慮に入れて批評されるものだから、通俗性や一般的価値がある。
しかし、映画が画一的な基準で評価できるようなものではないから、
新たな解釈を与えるためにも、評論が必要となる。
感想というのは、主に作品に含まれる内容を扱うもので、
主観的な評価に留まっている。
好き嫌いの判断を軸にした場合、作品の重要な部分を見落とす可能性が高く、感想文自体を読み物として読ませるという意図が必要となる。つまり、
作文のため、映画作者の意図といったものをミスリードしてしまう可能性がある。映画は誤解されることで神格化される作品もあれば、誤解されることで、本来の評価が得られない作品もある。
評論の受け止め
映画評論家の町山智浩氏に対する批判として、妥当と思ったのが、
原因となった発言内容は以下に文字起こしされている。
背景情報を知らないからシーンの意味を考えずに観られていた人が、
解釈が固定されると、その解釈でしか観れなくなる。
映画の魔法が解けるような解説は、リピーターにとっては、つらい。
現実的すぎる解釈を与えられると、ロマンを感じなくなってしまう。
作品に対する評論が一般化される時の受け手との認識のすれ違いは、
評論が一部の意見の一般化なのか、
大勢を占める意見の踏襲なのか、
その評論だけでは、わからないことである。
評論の受け止めるのも、作品を鑑賞するのと
同じくらいの心構えが必要な事例ではないだろうか。
※1
映画の社会性について
・時代性
時間を取り扱い、時代に求められる作品が作られる。
・総合芸術
映画製作に際して小さな集団(社会)が組織されて、
集団の働きが作品として現れる。
・テーマ
作品には、地域性、思想性が備わっており、
その解釈には、前提となる知識が必要である。