欲望と快感と祖母のやきそば/エッセイ
※初めにお断りしておくが、題名にやましい気持ちは猫の気まぐれに誓ってないと宣言する。もしそんな気がした人がいたなら両手を広げて自分を自分で抱きしめて、慰めるといいと思います。セルフハグは精神に安らぎを与えるとかなんとか。たぶん。
春の陽気もいいところ、半袖を着て夏先取りの浮かれた私は車で少し走ったところにあるフェイシャルエステに行った。
そこは、ハーブピーリングやプラズマなんたらとかで有名な場所だった。
3年ほど前まで常連だった美容室の身も心もかわいらしい担当さんが、みるみる美肌になっていくのが気になって聞いてみたら、ハーブピーリングをしているとか言っていたのでずっと気になっていた。
気になっていた割には3年も温めたことや、その美容室と疎遠になっていることに大した理由もないが、念のため添えておくと、私は人から聞いた気になることは3年くらい温めてから行動するタイプで、美容室は引っ越してから通うことが困難なので行かなくなった。
このように大したことない内容にも一所懸命に眼球の筋肉を動かして読んでくださった方には、ありがとうございますを添えておく。
夏の部活終わりの生徒の挨拶よりは真心があると思う。
さて、施術時間は約1時間半とのことだったので、終了するのは昼過ぎになりそうなのでお腹が空いているだろう。
「一人で食べに行くのは嫌いだし作るのも面倒だ」と思ったので、店の近所に住む祖母へ電話をかけて一緒に昼食を食べる約束をした。
さてエステ後の楽しみもできたのでいよいよ念願のハーブピーリングの時間だ。
しかし、店の扉を開けようと近づいたら、なんと扉は家に白と黒で二つ並んでいるではないか。
こういう時は直感に限るね!と黒い扉を開けるために白を通り過ぎたら、白からあまりにもいい香りがしたのであっさりと黒を裏切り白を開けた。
開けると、清流でも流れているのかと思うほど肌理と潤いに満ちた美肌のエステティシャンが「お待ちしていました!!」と迎えてくれた。
呼吸するたびにフぅウとため息がでそうな香りの中で説明をされながら、ずっとエステティシャンの肌を見つめていた。
その姿はまるで、外の世界を知らない光輝くかぐや姫である。
そして説明書きを示す手指は私の母と同じような仕事を知る姿だったので、今度はシンデレラに見えてきた。
眩しい。これがファビュラスなのか・・・実にデンジャラス。
エステティシャンはこんなに凝視されているのに堂々たる様だ。
私だったら恥ずかしくてたまらない。
しかし彼女は桃源郷の天女のような美肌である(天女を見たことはないが)ので、むしろ「見てください」と言っているかもしれないなどと勝手な解釈をした私は遠慮なくその後も観察し続けた。
説明が終わった後に「化粧室は利用されますか?」と聞かれた。私は時間のかかる事の前には必ずトイレに行く習慣があるのだが、今回に限って「こんな綺麗な人をトイレのために待たせて用を足すなんて恥ずかしくてできやしないよ」と思っていくのをやめた。
個室の施術室に案内されて「今日はデコルテマッサージがサービスでついていますので、こちらのローブにお着替えして下さいね」と通っている脱毛サロンやよもぎ蒸しサロンと同じローブを渡されたので「この世にはこの薄茶色のローブしかないのかね」とくだらない事を思い厚着していた服を脱いだところで悲劇は起こった。
トイレに行きたい。
猛烈に、行きたい。
薄着になった瞬間に感じた寒い空気に全身が震えた衝撃で、ほんの3秒前まで感じてもいなかった尿意が私を襲った。
普段であれば『いやあすみませんねェ』とか言って借りるのだが、一人外食もできない小心者の私は、このファビュラスな雰囲気にもう圧倒されてしまったので言い出すこともできず、そこから地獄の施術が開始された。
初めはフェイシャルエステで念願のハーブピーリング。この時は、脳内信号に誤った情報を流し続けて何とか楽しむことができた。
クレンジングから保湿ケアと最後に日焼け止めまでサービスしていただき、肌の上を滑る天女のようなエステティシャンの指は人はここまで優しくなれるのだなと感動してしまう柔らかなタッチでうっとりした。
この幸せな感覚に酔いしれて、次に待つ恐ろしい体験を予想もできなかったのは言うまでもない。
エステティシャンは肩まで温かく包んでくれていたブランケットを容赦なく胸の上まで下げて、冷えという尿意の大親友を呼び込んだのだ。
急な呼び込みにも関わらず絶え間ない訪問に私の心身は危険信号を大音量で発していた。
もし私が店だったらセキュリティボタンを迷わず押されて『A』やら『S』やらの警備員がやってくること請け合いである。
しかし、さすがのエステティシャン。この身体の危険信号に勝る眠気を生み出す手指の動きに私はうかつにも入眠寸前という感じになっていた。
そうして見たのは、一面花畑の丘のてっぺんを目指して走るという何ともありきたりだがロマンティックな夢だったのだ。
それでも癒されていく上半身の傍らで、我慢の限界を超え続ける下半身がいることを脳は忘れていなかった。
幸せな気持ちで丘の上まで来た時に、花畑の真ん中に見えたのは紛れもなく蓋の開いた真っ白の洋式トイレだった。
もう、ここまで限界だったのだ。
私は驚いて「ひい」と声を出してしまった。
脳が「これ以上は勘弁してあげてください」と言っていた。
涙が出てきた。
それをみたエステティシャンは「お疲れだったんですね。時々いるんです、施術中に泣いてしまうお客様。気にしないでいっぱい泣いてくださいね!」と無慈悲な慈しみを私に放ったので、涙が止まらなかった。
ようやく施術を終えた頃には、癒されに来たはずなのに精神と肉体が疲労を感じており、何の時間だったのか。と会計トレーに現金をのせながら呆然としていた。
「レシートはご利用されますか?」と聞かれたので「いいえ、化粧室を利用させてください」と伝え、何も悟られまいと能楽師のような足取りで一歩ずつトイレに向かった。
ようやく緊張から解かれたので安心してトイレの設えを見渡すと、なんと美しい城のような雰囲気で、足元のマットはラメ入りの高級そうなものが使われていた。うちの猫よりも長毛であった。
トイレットペーパーは、祖母の家でみるようなファンシーな柄物ではなくエレガントなバラのデザインがされていたし、スリッパはタッセル付きの銀色のアラジンに出てきそうなデザインで、外履きにしたいくらいだった。
このようにして『欲望』と『快感』を同時に享受した私は、言葉にできない気持ちを抱えたまま車を10分ほど走らせて、老犬と暮らす祖母の家に向かったのだった。
祖母は本格的に鉄板を温めて目の前で焼きそばを作ってくれた。
祖母にはオリーブオイルを使うこだわりがあるので洋風な味がして純粋な焼きそばとは言えない味だが、間違いなく美味しかった。
そして唐突に「あら、珍しくお肌が艶々してるわね!どうしちゃったの?」と聞かれたので、言うつもりのなかったエステ体験を話すことになった。
トイレをずっと我慢していたことは最後まで隠すつもりだったのだが、祖母は何の勘が働いたのか脈略もなく「施術時間ながかったんでないの?ちゃんとトイレ行ったの?」と聞いてきたので、びっくりして焼きそばを勢いよく啜ってしまい、大変だった。
どうして母と付く存在の者は一人残らずこうなのだろうか。父とつく者には一生に一度あれば奇跡の能力「余計なエスパー」はタイミングを見誤ったことは無い。
隠す予定だった地獄と天国の体験を伝えた私は大真面目だった。それはもう生死にかかわるという感じの経験だったのだから、高校受験の合否くらいの気持ちで話した。
最後まで話したところで祖母は「花畑の中にあったのが川でなくてよかったねェ。トイレでするのは行儀が良いこと~!」と両手で拍手しながら大笑いして「味変していい?」と私の返事も聞かず、レモンを絞ったりしながらスパゲティのような焼きそばを鉄板の上でジュウジュウと転がしていた。
私は食後しばらくしてからトイレに行った。祖母の家のトイレはかなり金をかけていて全自動だし、よくわからない犬の置物が超厚手の手拭きペーパーを守っている。どれくらい厚手かというと、葬式で持っていく薄手のハンカチくらいの厚みがある。これもある意味ファビュラスなトイレである。
一体全体、ずっと使っているファビュラスという単語について理解の浅いままなので叶姉妹にご教授願いたいところだが、とりあえずファビュラスなので仕方ない。
トイレから戻る私を祖母は大笑いして待っていた。「間に合ってよかったね。もう変な夢も見ないね!」としつこく笑っていた。
祖母が笑顔になるならば、今回の経験は良いものだったと言うしかない。
ああ、よかったね。あの時トイレに行かなくてよかったね。
なんでも面白おかしく無理やりオチを作ることも人の返事を待たずに行動することも、しつこく笑って相手を前向きにさせるのも私に色濃く受け継がれたDNAであることは間違いない。と無理やりオチを作って終わりにする。
そして、このような地獄の経験の再発防止に誠心誠意努めてまいります。どうもこの度は申し訳ございませんでした。と、私の祖母よりも「偉い」とか言われている人たちの記者会見のような中身のない謝罪を添えておこう。