3.カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』(土屋政雄訳)
トミーへ
トミーに手紙を書こうと思ったのは、他でもない、あなたが癇癪持ちだったからです。あなたはそのことでずいぶん苦労していたようですが、最後にキャシーがいうように、あなたは全て、体で感じ取り知っていたから、だからこそあそこまでの癇癪をいつも引き起こしていたのではないか、私もそう思います。絵が下手だったのだって、他の人とは違う感受性がはたらいていたから、そのように思えます。そんなトミーの癇癪を私は、とても人間らしいと思います。人間らしくて愛おしい。大切な要素に思えます。
複製された存在に向かって、人間らしいというのもおかしな話なのかもしれません。でも私は、人間の人間らしさたるはどこに宿るだろうか、と考えた時、感情とその表現にある、そう思ったんです。感情はそこにあるだけでは不完全です。それは人々に、周囲にそれとして伝わらなければ意味がありません。そして、上手い抑制やコントロールがきかないのもまた、人間的な感情の特徴だと思うんです。だからトミー、あなたの癇癪は人間らしくて愛おしい。きっと、ルーシー先生も、あなたを見ていて同じような愛情を感じていたのだと思います。
トミー、あなたに疑問がひとつあります。そして皆への質問もひとつ。あなたはなぜ、ルースと一緒にいることを選んだのですか? 否、選んだというよりルースに選ばれたから、というのが実際に思えます。でも何故。なぜキャシーを選ばなかったのでしょう。みんな、知っていたからですか。提供とその後について、自分たちには’今’しかなくて、その’今’に対する懸命さなんて必要ない、そう思っていたのですか。でもヘールシャムはそうではない施設だった。違いますか? ではなぜ。これが皆に波及するもうひとつの質問です。なぜ、逃げなかったのですか。猶予期間がもらえなくても、キャシーと共に逃げてしまえばいい。どこまででも行って、ひっそりと二人で暮らしていけばいい。どうせみつかったってそうでなくったって、提供と痛みと苦しみの果ての死、それが待っているだけなら逃げて隠れて暮らしてみたって良かったんじゃないか、そう思います。それからもうひとつ、みんなで正面から反抗する、そういう手だってあります。ヘールシャムが閉鎖に追い込まれた人々の恐れを、現実のものとして訴える、どうしてあなたたちは従うことに否と言わないのでしょう。でもこれは私の勝手な憤りです。それこそ私はヘールシャムのようなところで育てられていなければ、クローン人間でもない。だからわからないことが多すぎて、想像力が足りないのかもしれない。それでも。トミー、あなたはマダムやエミリ先生とではなく、ルーシー先生ともっと語り合うべきだった、あの時。私はそう思うのです。あなたは自分をバカだとよく言っていたけれど、私はあなたをとても賢いと思うのです、キャシーよりも誰よりも。トミー、せめてあなたが穏やかな顔で横になっていられますように。
Kamoi
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