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盾状迫石に関する追加調査

盾状迫石とは?(たてじょうせりいし)
アーチ橋の最重要部材「輪石(わいし)RING STONE」を通常使われる台形ではなく、将棋の駒のような五角形に形成したもの。

王子橋拡大 輪石部分を4~6個の石を組み合わせて「盾状迫石」の形を作っている

京都府亀岡市にある王子橋は明治17年に完成した石造アーチ橋です。
 この橋の設計者が「田辺朔郎」とされている事に疑問を持った事、迫石(輪石)に使われている「集合盾状迫石」の出どころが謎である事に関する記事を以前書きました。
⑧ あとがき というか まえがき|鴨東

この件に関する調査記録です。

盾状迫石使用例 明治7年 堀川第二橋

堀川第二橋 南側
堀川第二橋 北側
盾状迫石を使用した石造アーチ橋

以前の記事で最も早い時期の盾状迫石の使用例として、東海道線旧逢坂山トンネル西口の隧道ポータル(入口)明治13年を上げていましたが、堀川第二橋は明治7年で大幅更新されます。

堀川第一橋 明治6年

付近に前年に造られた堀川第一橋がありますが、第二橋とは構造が異なります。

堀川第一橋 明治6年(1873)

堀川第一橋は通常の台形迫石で作られており、全国的に事例のほとんど無い真円アーチとなっています。(下部は地中に埋まっており分かりませんが、京都市の橋梁台帳に記載があるようです。)
 第一橋を作ったのは白川村の石工と親柱に刻まれています。

石工 山城國愛宕郡白川村 内田源左衛門 小川権三郎 京都 堀川通下長等・・森下徳次郎

白川村の石工は17年前の安政3年(1856)西本願寺大谷本廟の円通橋を作っています。ここも真円アーチとなっており、欄干の形状、作られた時代と合わせて、類似性が強く感じられます。

西本願寺大谷本廟「円通橋」アーチの積み方、欄干の仕様など共通する部分が多い。壁石の積み方など細部はこちらのほうが丁寧な仕上げです。

円通橋と堀川第一橋は同じ集団により江戸時代から伝わる技術で作られたと見ていいでしょう。
 ところがその翌年の堀川第二橋は、明治の一時期 京都府の事業で盛んに使われた盾状迫石の半円アーチとなっています。田辺朔郎の「袖珍公式工師必携」に描かれた姿そのままです。

田辺朔郎著「袖珍公式工師必携」第12版 石造アーチ 各部名称の解説図

盾状迫石使用例 明治11年 五条小橋

五条大橋の横の公園の地下に高瀬川に架かる五条小橋が現存しています。堀川第二橋と似通った盾状迫石です。

左の下部は擁壁の中に埋まってしまっているが3/4ほど残っている。現在の五条大橋は昭和34年に架け替えられ、その際地下に埋められたもの。そこから時間が止まったようになっており保存状態は良好 かなり扁平(ライズの低い)設計となっており、橋台の強度が要求され難易度が高い

この橋がいつ架けられたか記録は無いのですが、明治28年3月の京都名勝便覧図会に、木橋でも石柱橋でもない奇妙な橋が描かれており、上の写真と似ています。

京都名勝便覧図会「五条大橋」M28 国立国会図書館デジタルアーカイブ(着色)

この絵図で、欄干に注目していただきたいのですが、右の五条大橋は擬宝珠付きの伝統的な欄干であるのに対し、五条小橋は幾何学的な手すりになっています。
 江戸時代 五条大橋は鴨川と高瀬川をまたぐ一つの大きな橋だったのですが、明治11年に中州を拡張し郵便局と警察署を設置、五条大橋は、鴨川と高瀬川の2つの橋に分けられています。また橋を洋風化し欄干は白くペンキが塗られました。
 京都の景観にそぐわないと不評であったため、明治27年に元の擬宝珠を戻し、旧様式の欄干に戻されています。上の絵はその時の絵図という事になるのですが、小橋の上に洋風欄干が残されており、この五条小橋は明治11年に架橋されたものであると推定できるのです。

明治11年洋風化後 京の記憶アーカイブ写真 カラー化

盾状迫石使用例 明治17年 王子橋

京都市から老坂峠を越えて亀岡に入った所にある王子橋 左側は昭和44年に架設された現在の王子橋(国道9号)旧王子橋は現在歩道として使われている

京都府の技術者集団は、石造アーチを立て続けに作って来て、集大成とも言うべきなのがこの王子橋です。
 径間25mは九州以外の石橋では最長とも言われ、深い谷間に架設されており支保工の難易度も高い。

 そして最も特異なのが、迫石で、アーチのリング部分は最も応力がかかるため通常大きな石を使う事が推奨されますが、入手できなかったのか4~6個の石を集めて盾状迫石の形にしています。
 この形状については、素人考えですが、応力的には以下のような問題の有る構造だと思います。

概念図では斜め下方向のベクトルしか書かれていませんが、実際は反力がかかりお互いに押し合う事で支えあいリングは下に落ちません。盾状迫石の形状はその力を正しくない方向に伝えるので構造的によろしくないと思うのです(文系の妄想かもしれませんが)、さらにこの迫石を小石の集合で作ると、大きさがずれると上のように支えあう力が働かず脱落するのでは? という疑問をずっと持っています。

構造上の不都合からかどうかは分かりませんが、円環の全周を盾状迫石で形成した事例はこれが最後になります。

盾状迫石使用例 明治21年 旧岡田橋

王子橋と同じ「京都宮津道路」の道路橋として架橋された

ここでは、盾状迫石は下部の4~5個のみに使われ、その他は通常の台形となっている。
 恐らく盾状に形成することは、見栄え以上の意味は無いという認識になったのではないか。これ以降もトンネルの入り口には装飾的な意味で使われたが、道路橋への採用は無くなって行きます。

なお、京都宮津道路の関連で、架橋年度不明ながら、「大膳橋」「旭橋」がありますが、これも末端の2~3個のみ盾状迫石で形成しています。
橋景57 大膳橋/旭橋/高畑橋 by.くるまみち

どこから来た技術か

日本の石橋のルーツを大雑把に整理すると以下のとおり。(個人的整理です)

沖縄系

中国から沖縄に伝わった技術 沖縄以外には伝播せず。
肋骨型のリブアーチを特徴とする。

庭園系

庭園の装飾として作られるもの。
おそらく中国の水墨画等の形状を見よう見真似で作ったのでは?
小規模な物が多い。

南蛮系(長崎系)

出島を通じて南蛮貿易で伝わった技術(中国説とポルトガル説あり)。17世紀中ほどから長崎で盛んに作られた。門外不出とされ他には広まらず。

熊本系(熊本・鹿児島系)

長崎で藤原林七が国禁を犯してオランダ人より技術を学び逃亡、潜伏先の熊本で研究し技術を完成、名工岩永三五郎が出て鹿児島にも伝える。19世紀初頭から盛んに作られた

ここまでが江戸時代、本州には伝わらないまま明治を迎えます。

土木技術系

イギリスなどの土木技術を正式に学び作られたもの。明治期に用いられたが、鉄筋コンクリートの発達と共に大正期には作例が少なくなる。

円通橋・堀川第一橋は庭園系の技術だが、第二橋から土木技術が導入されたと思われ、明治6年に京都府に採用された技術者にそのルーツがあると推察します。
 明治6年 田辺朔郎はまだ11歳であり、この流れの中で王子橋が作られたならば、王子橋の設計者は田辺朔郎ではないという結論になります。

調査途中ではありますが、考えれば考えるほど田辺朔郎設計ではないという結論に近づいていくようです。 

堀川第一橋親柱 建築主任 京都府12等出仕 中村孝行 設計者がこのクラスの人だと王子橋の設計者を特定することはほぼ不可能そうな気がします。
堀川第一橋 石橋の強度は現在の交通を十分支え得る

本日は以上です。
情報求ム

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