五条大橋の歴史
🎵京の五条の橋のうえ~🎵
五条大橋というと、この歌を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか?
戦前は尋常小学校唱歌として歌われ 知らない人はいない歌でした。
弁慶と牛若丸の出会いには諸説ありますが、道行く武芸者から千本の刀を集める誓願を立てた弁慶が、五条大橋で刀狩りをおこない、ちょうど千本目に通りかかった牛若丸に打ち負かされて家来になった というのはさすがに創作上の演出でしょう。
歌の史実性はともかく、この時代の五条大橋は今の場所ではなかったというのはご存じでしょうか?
最初の五条大橋
五条大橋は平安時代の初期、嵯峨天皇(809-823)の勅命により百余間(約200m)の橋が作られた事に始まります。
その位置は現在の松原通りの位置で、通りの名前もそこが五条通りでした。
秀吉の五条大橋
天正18年(1590)豊臣秀吉は 方広寺大仏殿 の造営にあたり、参道とするため五条大橋を当時の六条坊門に移動させました。
この橋をそのまま五条橋と呼び、通りの名前は五条大橋通りと呼んでいましたが、次第に五条通りと呼ばれるようになりました。
元の五条通りは沿道に松が多かったので松原通りと呼ばれるようになりました。
上図は創建当時の方広寺を描いた洛中洛外図です。
橋の上には方広寺を参詣した帰りと思われる豊臣家の一行が、舞い踊りながら行脚する様子が描かれています。
方広寺は鐘の銘事件で家康が豊臣を攻め滅ぼす口実とした因縁の寺であり、その後の豊臣家の運命を考えると、何とも儚いものを感じます。
方広寺創建の1590年は北条氏を攻め滅ぼし、天下統一を成し遂げた年で豊臣家はその絶頂にありましたが、その後の運命を象徴するように不幸が次々に襲い掛かります。
創建からわずか6年1596年の慶長伏見地震により五条大橋はもろくも倒壊してしまいます。
秀吉の五条大橋は巨大な御影石の柱が立ち並び、虹のような弧を描く勇壮な橋であったと伝えられています。折れた橋脚は西側の公園や博物館等に飾られており、当時の勇壮さを今に伝えています。
江戸時代の五条大橋
寛文年間(1661-1673)の洛中洛外図です
橋脚は木造で「通し貫き」という柱を貫く横棒が設けられています。
(通し貫きの有無は絵図に書かれた橋脚が木造か石柱か見分けるヒントになります。)
現在も残る擬宝珠には「洛陽五條石橋 正保2年 乙酉十一月吉日」と刻まれており、正保2年(1645)は石橋であったようです。
ちなみに洛陽というのは、京都を中国の古い都になぞらえたもので、もともとは左京を「洛陽城」、右京を「長安城」と呼んでいたのですが、右京は洪水が多く低湿ですぐに廃れてしまったため、洛陽の呼び名だけが残り、洛中洛外の語源となりました。
角倉了以により高瀬川が開削された1611年以降の版画です。
五條大橋は、鴨川(手前水色)と高瀬川(青色)をまたぐ一つの橋となっています。画面左には2人組で船を曳いて高瀬川を遡る様子が描かれています。この時代は木橋だったようです。
高瀬川沿いには簡素な建物(茶色着色)があって、おそらく鴨川の景色を眺めながら休める茶店だろうと思います。
江戸時代中期1686年の地図です。三条と五条が大きな橋で、四条と松原通には仮橋がかかっています。
三条は東海道五十三次の終点として、五条は東海道が三条に移る前は渋谷街道を通っていたため主要な道路とみなされていたのだと思います。
一番左側は高瀬川で、五條大橋の北付近から四条まで鴨川には大きな中州が描かれています。
明治時代の五条大橋
明治初期の写真です。
写真を拡大して観察すると、橋脚は石柱(この時代鉄筋コンクリートはまだありません)その上の梁までが石で桁や床板は木で出来ている事が分かります。
鴨川にほとんど水がありませんが、琵琶湖疏水が出来る前の鴨川は渇水期には水が無くなるような細流であったと言われており、写真からそのことが分かります。
洋風大好き京都府第二代知事 槇村正直の時代、五条大橋が洋風化されます。
幾何学的な欄干とガス灯が設けられています(この時期まだ電気はありません)
同じ頃 四条大橋は殖産興業政策で国産化された伏水製作所の鉄で手すりなどが作られていますが、上の写真を拡大してよく見ると手すりは木製で形だけ真似をしている事が分かります。
なお橋脚や橋桁は以前のままで石柱となっています。
この洋風化は不評だったようで明治27年に元の様式に戻されています。
この頃の観光案内です。
秀吉移設以降の五条大橋の歴史や 高瀬川の船曳道が拡張されて郵便局や警察署が設けられた事が紹介されています。
左端高瀬川にちょっと奇妙な形の橋が架かっていますが、これは五条小橋と呼ばれる橋です。
実はこの橋まだ有るのです。
ちょうど西側の公園の下あたりの地下に立派な石造りのアーチ橋が残されています。
アーチ部分の輪石(わいし もしくは迫石 せりいし)が五角形となっており、盾状迫石(たてじょうせりいし)と呼ばれる珍しいものです。
実は、盾状迫石について別件で調べているのですが、上の便覧絵図では槇村知事時代の欄干が乗っており、橋自体が明治11年に作られた物と想定できます。盾状迫石の使用としては最初期のもので、京都府にこの形状を好む技術者が居た事が想定されます。
右 側の煉瓦積みは市電関係の遺構と思われます。その手前の土嚢は何なのかちょっと気になりますね。
また、五条大橋の下には田辺朔郎設計の本願寺防火水道も設けれれています。 蹴上インクラインの上に溜池があり、そこから延々と鉄管が繋がれていて、火災が発生した際にバルブを開けると高低差で自然に水が吹き上がるシステムになっています。
昭和の災害と戦災
昭和10年6月末 京都は激しい雷雨に襲われます。
浸水家屋5万戸余、全壊半壊流出家屋590戸、死傷者164名を出す大災害となり、橋梁56橋が流出しました。
昭和20年 第二次世界大戦末期、空襲による延焼を防止するため、五条通りの建物疎開(取り壊し)が実施されました。写真は終戦直後の航空写真で、鴨川にかかる五条橋が元の五条通りの幅ですが、南側の建物が幅広く無くなっている事が分かります。
戦後復興から現在
戦後の復興については、一番東側の擬宝珠に刻まれいます。
五条大橋は、五条通が戦時建物疎開跡に幅50mの道路となり、
昭和27年 国道に指定されてから、
京都市交通動脈の様相を帯びてきたので、
ここに現代技術と美の粋を集めた
長さ67m幅35mの鋼桁橋として架設された。
影を鴨水に染め
東山の翠に配した擬宝珠付石造高欄は、
まさに王朝と現代を調和した
文化観光都市の一つの象徴といえよう、
疎水橋もこれにならい擬宝珠二筒を追補した
昭和34年3月 京都市長 高山義三
設置にあたっては、伝統的な様式を求める市民と、堅牢な構造を求める建設省・学識経験者との間でデザインについて議論が交わされた結果、瀬戸内海の北木石で木造様式を模した高欄をつくり、伝統様式と機能を兼ね備えたものとなりました。
昭和34年3月2日 にぎにぎしく竣工式が行われた後の昭和50年の航空写真です。
元の五条橋は今の橋の北側にあり、供用したまま新橋の工事が行われて、工事完了後その役目を終えて取り壊されました。
上の写真はまだ東側に京阪電車が走っており、橋の上に踏み切りで停車している車が見えます。
その右の水路は、田辺朔郎設計の琵琶湖疏水鴨川運河で、昔は蹴上インクラインを通じて琵琶湖へ、伏見インクラインを通じて淀川から大阪・兵庫へとつながる大運河の一部でした。
現在は京阪電車も鴨川運河も地中化されて、川端通りとして自動車交通に利用されています。
五条大橋は今年で65周年、これからも様々な歴史を刻んでいくことでしょう。