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岩倉遣欧使節団と田辺朔郎


明治5年8月9日 ロンドンにて撮影

岩倉遣欧使節団と田辺朔郎

 岩倉遣欧使節団は、幕末に締結した不平等条約の改正を目指し明治4年11月10日に横浜を出発、米欧各国を歴訪したもので、右大臣岩倉具視を全権大使とし、当時明治政府の実権を握っていた大久保利通以下、木戸孝允(桂小五郎)、伊藤博文など政府の主要メンバーが1年10ヶ月もの間外遊するという明治初期の大事件でした。

遣欧使節団の業績は多岐にわたり、色々な切り口がありますが、このページでは田辺朔郎に関係してくる事について絞って紹介させていただきます。
 
使節団の諸々についてはアジア歴史資料センターで詳しく特集されていますので、興味のある方は下のページをご覧ください。
-明治150年 インターネット特別展- 岩倉使節団 ~海を越えた150人の軌跡~ (jacar.go.jp)

使節団で田辺朔郎に関係してくること
①叔父の田辺太一が事務方のトップとして参加
②当時工部大輔であった伊藤博文により工部大学設立のための人材確保が行われた事
③使節団の出発の2か月後、外債募集のため日本を出た大鳥圭介が途中から合流、工部大学設立時に校長となる事
④帰国時に出迎えに行った田辺朔郎が蒸気船ゴールデンエイジ号を目撃し感銘を受けて工学を志す原点となった事

「田辺太一」について
田辺太一は朔郎の叔父にあたる人物です。
田辺朔郎の父は幕末の洋式砲術家 高島秋帆たかしましゅうはん(数年前の大河ドラマ「青天を衝け」では玉木宏が演じていました。)の弟子でしたが、幕末に西洋から持ち込まれた伝染病にかかり田辺朔郎が1歳になる前に亡くなっています。
 朔郎一家には母と祖母、姉が残され、田辺太一はその家計を援助しており、田辺朔郎にとっては単なる叔父甥という関係以上の存在でした。
 田辺太一は幕府の外事方として幕末に2度洋行し、大政奉還時には渋沢栄一らと共にパリに居ました。帰国後は駿府に移封された徳川家に従い静岡に移住、ここで近代科学を教えた「沼津兵学校」の講師を務めました。明治2年に東京に戻ったため兵学校に籍を置いたのはほんの1年ほどですが、叔父と一緒に静岡に来ていた田辺朔郎もこの学校に在籍していました。
 沼津兵学校は数学の沼津と言われており、数学の一教科として測量も教えられていましたが、当時の田辺朔郎はまだ7歳であり、後年の朔郎にどこまで影響があったかはよくわかりません。

「大鳥圭介」について
 大鳥圭介は田辺太一と同じく幕臣で旧知の間柄でした。
 
 幕府の洋式歩兵部隊「伝習隊」を率いて戊辰戦争を戦い、函館政府では陸軍奉行として陸軍奉行並の新撰組副長土方歳三らと共に最後まで戦いました。 降伏するにあたって徹底抗戦を主張する同胞に「死のうと思えば、いつでも死ねる。今は降伏と洒落こもうではないか。」と言って悠然と降伏したという逸話を残しています。

 明治2年5月18日に降伏した後は収監されていましたが、明治5年1月8日に特赦により釈放、同年2月年政府が外債を募集するにあたり、西洋知識を買われ交渉要員として随行しました。
 この外債募集使節団は、2か月前に出発した岩倉使節団が、委任状を取りに大久保・伊藤が一時帰国している間に追いつき、以後行動を共にしています。
 ロンドンで田辺太一と一緒に写真を撮って、同じく旧幕臣で函館政府の総裁であった榎本武揚に写真を送っています。それが冒頭の写真です。

 緒方洪庵の適塾で蘭学と西洋医学を学んだ他「砲術」「築城」「堰堤築造」「炭鉱」「木酢液」などについて著作・翻訳があり、活版印刷等も手がけ、その活字は「大鳥活字」と呼ばれたりしています。
 好奇心旺盛で前向きな考えの持ち主で、相当面白い人だったのではないかと想像します。(地元では自主製作アニメ「けいすけじゃ」が作られたり人気がうかがえます。)

 大鳥圭介は帰国後創立された工部大学校の初代校長に就任する事になるのですが、工部大学設立には岩倉遣欧使節団に参加した伊藤博文が大きく関わっています。

「伊藤博文」について
 言わずと知れた初代総理大臣伊藤博文は吉田松陰の門下生では末弟的なポジションであり、松蔭からは「俊輔は周旋の才あり」と良く分からない評価をされていましたが、結果的に松下村塾では一番の出世頭となりました。
 後の政治家としての活躍を見ると松蔭の評価は正しかったと言えるでしょう。

 幕末の1863年長州藩から伊藤博文・山尾庸三・井上馨・井上勝・遠藤謹助の5人の若者が密出国、イギリスに留学しました。(いわゆる長州ファイブ)
 このうち、伊藤博文と山尾庸三は、維新後日本の工業的発展を図るため工部省の設立に尽力し、明治4年に工部省設立。使節団派遣はこのタイミングであり、伊藤博文はイギリスにおいて工部大学設立のための人材を求める一方、山尾は国内で工部大学設立のための準備を進めていました。

 「田辺朔郎博士60年史」では、米欧の実情を目にして、条約改正よりまず工業力を涵養する事が第一であるという思いが使節団に広がり、ほとんど「工学熱」にかかった状態になった、と述べているが、伊藤と山尾は使節団派遣前から工部大学の構想を持っていたようです。
 
 伊藤はイギリス留学時代に世話になっていたジャーディン・マセソン商会のロンドン支配人ヒューマセソンに教員の人選を相談しました。
 マセソンはイギリス工業会の大家ゴードンに相談、さらにグラスゴー大学教授ランキンを通じて紹介されたのが、当時グラスゴー大学の学生であったヘンリー・ダイア―でした。
 ヘンリー・ダイア―を中心とし教授陣の人選がなされ、日本に工部大学が設立されて、田辺朔郎にとって生涯の恩師となるのですが、ヘンリー・ダイア―と工部大学のカリキュラムについては稿を改めて記載します。
 
 岩倉遣欧使節団は当初の目的であった条約改正こそかないませんでしたが、西洋の実情を肌身に感じた首脳陣の間に立ち遅れた日本の工業を発展させなければならないという意識を強烈に植え付け、その後の日本の方向性を決定づけたと言えるでしょう。
 
 この流れの中で工部大学が設立され、そこで学んだ田辺朔郎が琵琶湖疏水を作る事になります。叔父の帰国を迎えに来た横浜で、ゴールデン・エイジ号を見て工学を志した朔郎ですが、正にこの船こそ朔郎の運命を運んできた船だったのです。

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