【エッセイ】読書好きなのに本を読まなくなった成人男性が1か月で11冊を読書できた方法②(全4回)

※これは本好きなのに本を読まなくなった成人男性が、自分が大好きな「本を読む時間」を取り戻した方法を記録した連作エッセイです。

【前回までの「読書好きなのに本を読まなくなった成人男性が1か月で11冊を読書できた方法」は】
 (その1:自分のこと、概略)
 ・本が好き。ミステリとラノベが好き。サイコスリラーも大好きだよ。
 ・本屋行き、本を買えども、読みはせず(季語なし)
 ・積読。積読。また積読。まるで段差のように積まれていく。これが大人の階段なの?

 第2回の今回は「自分のこと、分析」と題して、僕が本を読まなくなった理由について自己分析していきます。
 その1でも書いた通り、「『できない理由』はみんな違います」。そして、その理由に対する対処を間違うと、遠回りをして、エネルギーを無駄にします。せっかくなので、最短ルートで行きましょう。そのための自己分析です。
 きっとこのエッセイを読んでいただいている方は、「もっと本を読みたい」「自分の好きなことに積極的になりたい」という方だと思いますので、僕の分析を読んで、ご自身の自己分析を進めてもらえたら幸いです。

2. 自分のこと、分析
 なぜ本を読まなくなったのか。それを明らかにすることで、読書への活路が開かれるだろう。人の行動には意味がある。どんなに不可解な行動でも、そこには必ず意味があるのだ。僕は「無意識」を信じていない(フロイト先生、ごめんなさい)。

 そこで自分の生活を振り返りながら、その理由を考察して2点にまとめてみた。
 それは以下の通りだ。

  ① 読書をするには不都合な環境になった。
  ② 読書以外の時間の消費方法が増えた。

 それぞれについて細かく見てみよう。

① 読書をするには不都合な環境になった
 まず1つめ。突然だが、僕は明るいのが苦手だ。別に性格的な話ではなく、物理的に明るい、照度が高い環境が苦手なのである。もしかすると、虹彩の色素が若干薄いことが原因かもしれない。初めて会った方には「目が綺麗ですね」と言われる。嘘ではない。決して嘘ではない。
 そんなわけで、在宅時はだいたい間接照明の薄暗い中で生活している。休みの日は昼間でもカーテンを開けない。たまに人が来て、朝にカーテンを開けると「うわぁー目がー目がー」とムスカさんのようになる。
 そんな環境では、文字を追う読書はしにくい。たいていの場合、僕は部屋にいる間、ベッドに横になっている。本を読むとなると、うつ伏せか横向きだろう(仰向けだと、本を持ちあげていなくてはならず、腕に死ぬ)
 でも、薄暗い部屋では仰向けになると、自分の頭で本が隠れ、より暗くなる。横向きだと、位置的に間接照明の方を向くことになってしまい、眩しい。どっちにしても本が読みにくい環境なのだ。
 このような暮らしは一人暮らしを始めてから続いている。そういえば、一人暮らしを始めたのは社会人になってからだ。時期が符合する。

 もう一つは「本を読む時間」を共有する人物が周りからいなくなったことだ。小学生の時には図書委員会に所属していたので、周りに本を読む人がいた。中学高校の時には、オタクの友達や先輩等と一緒に、読んだ本について「ここの描写って伏線?」「ちょっとセリフの癖が強すぎてそっちに引っ張られる」のようなことを「あーだこーだ」言っていた。大学生の時も、読んだ専門書についてゼミで発表したり友人とディスカッションをしたり解釈をしていた。つまり、これまでの「本を読む時間」は1人で完結ではなく、誰かと共有して終りだったし、それを楽しんでいたのだ。
 しかし、社会人になると、周りに本を読む人はいなくなった。社会人になってからの知り合った人で「本を読む時間」を大事にしている人はほぼいないし、仮に読んだ本の話をしたとしても「ふーん」で終わってしまっていた。誰かとの共有までを含めて楽しんでいた僕にとっては、読書の魅力が半減してしまったわけだ。
 とある調査(平成30年度「国語に関する世論調査」、文化庁実施、16歳以上の男女を対象)によると、「1か月にだいたいどのくらい本を読みますか」という問いに対する回答は以下の通りだったらしい。
「読まない」:47.3%
「1、2冊」:37.6%
「3、4冊」:8.6%
「5、6冊」:3.2%
「7冊以上」:3.2%
 16歳以上という高校生、大学生という学生層を含めてもこの結果だ。純粋な社会人、労働者に絞るともっと下がるだろう。この文章を書きながら、日本全体からすると読書人口は少なく、レアな趣味であったことに衝撃を受けている。

② 読書以外の時間の消費方法が増えた
 これは比較的シンプルな理由だろう。昔は自分でできる娯楽なんてほとんどなかった。読書を除くとゲームくらいか。しかも僕の場合、それはプレイステーションに限定されていたので、家の外で行うことができなかった。外に出ると娯楽は読書しかなく、通学時間が長かった僕にとって絶好の「本を読む時間」だった。
 しかし今は魔法の道具、スマートフォンがある。これさえあればゲームだろうがネットサーフィンだろうが動画配信サービスだろうが自由自在だ。手を伸ばせば、いつでもどこでも娯楽がある。1日は24時間。今も昔もそれは変わらない。そうであるならば、本を読んでいた時間はどこに消えたのか。そう、スマホにとって代わられたのである。
 そういえば、僕が携帯をスマートフォンに変えたのは社会人になってからだ。これも本を読まなくなった時期と符合する。
 また、僕のライフスタイル?の変化も原因かもしれない。
 仕事を終え、帰宅してからのルーティンは決まっている。
「帰宅」→「夕飯」→「風呂」→「娯楽」である。
 僕は「娯楽」は最後。1日の終りに行うというライフスタイルで生活をしている。1日の終りなので、娯楽を行う頃には日中の仕事や家事の疲労から疲れもピークにきており、まともな体力・精神力は残されていない。そして、ベッドの上にいるがゆえに、娯楽の海に沈み寝落ちという溺死に至るまでフワフワとした時間を過ごしている。
 そしてそんな僕に都合の良いことに、現在の娯楽のほとんどは受動的だ。例えばYouTubeや動画配信サービスは自動的に娯楽が提供され、考える力を要しない。黙っていても次々と娯楽が提供され、僕はそれをただフォアグラ用に飼育されているガチョウのようにをむさぼるのだ。
 しかし、読書はどうだろう。受動的であるという見方もあるかもしれないが、その実、精神活動としては積極性の強いものだと思っている。本を選び、ページをめくり、文字情報から世界観を自分の中に生み出し没入する。選択、空想、整理など高度な精神活動を行っていることがわかる。それに比べたら、自動で提供される娯楽の方が何倍も楽だ。疲れた身体には高い精神活動を求められる読書にはハードルが高いのだろう。
 水は低きに流れる、である。

 これらの自己分析をしてみてわかったことがある。
 好きなことは変わってない。
 なのに環境や思考の変化で行動が変わる。
 変なの。


 原因・背景が分析できたら、今度はいよいよ対処方法の検討をしよう。
 でもちょっと待って。闇雲にやってもしょうがない。まずはじっくり戦略を練ろう。
 次回、その3「自分のこと、戦略」に続きます。
 お楽しみに。

【その2のまとめ】
 ・環境が変わった。時間の使い方が変わった。生き方が変わった。
 ・時代もだいぶ変わったよね。スマホってすごい。
 ・自分の好みは変わってない。好きなものは好き。それでいい。

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