選挙粛正運動考察

投票風景

はじめに

「選挙権は憲法に依りて天皇より附与せられたる至高至重の権利にして、これを享受するの幸福を得たる臣民は、何人よりもこれを犯さざることなきの特権を有するのみならず、国家忠良の民としては何人にもこれを犯さしめず、またこれを汚さしめざるべきの義務を有す」

戦前において投票は天皇から与えられた権利であり「義務としての投票権」「不正選挙は不臣行為」というスローガン通り、有権者は慎重かつ厳粛に義務を果たさなければならなかった。
そんな神聖であるはずの日本の選挙の歴史は、選挙違反や選挙干渉との戦いの歴史であった。票の買収は日常茶飯事であったし、票を買収するために多大な選挙費用が必要とされ、それを公認料という形で支給する政党の地位は揺るがないものとなった。更に政党内閣の時代となると、警察や地方官人事(内務省)を掌握する政党が大規模な人事異動を行なって、利益誘導による票買収や、敵対政党の候補者に対する厳しい選挙取り締まりを行うといった選挙干渉を行った。

このような政党の天下も長く続かなかった。
政党による弊害(党弊)が地方を疲弊させ、政党政治に対する不信が高まり、ついには515事件によって政党内閣が武力によって打倒される事態が発生した。
即位後から政党政治の弊害を見続けた昭和天皇は、元老西園寺公望に対し、政党内閣・挙国一致内閣の政治体制に拘りはないし、後任首相には人格を最も重視すると述べ、暗に政党内閣の中断を示唆するに至った。

こうして誕生した斎藤内閣の使命は政党内閣への復帰の道筋をつけることであった。政党内閣が復活するには政党が国民の信頼を取り戻さなければならない。その一環として行われたのが、選挙から不正行為を一掃しようという選挙粛正運動である。

従来、この選挙粛正運動には二つの評価が為されている。
一つは衆議院選挙から不正が除かれたことで、より公正明大な選挙が行われたという肯定的な評価であり、もう一つは選挙を厳しく取り締まることで政党の地盤を解体しようとした内務省の革新官僚の存在を指摘する否定的な評価である。
選挙粛正運動とは何だったのか?選挙粛正を巡る選挙法改正が政局に発展した林内閣期を含め、今一度考察してみたい。

1. 選挙粛正委員会

選挙粛正の運動は何も内務省の革新官僚に先導された訳ではない。政党も選挙の問題や政党の弊害を是正するという課題を共有し、幾度もなく衆議院議員選挙法の改正に取り組もうとしていた。
32年、政友会は衆議院議員選挙法改正の問題に取り組み、選挙法改正の原案を作成している。原案には公営選挙、選挙期間短縮、選挙方式の変更などがあるが、特に目がつくのは、選挙区ごとに選挙粛正委員会を設置するという方策である。

選挙粛正委員会とは、各政党の幹部、官吏、有力者等の委員(任期は2年)からなる委員会であり、平時においては政治教育の普及を、選挙においては選挙粛正のために協議し、選挙に関する重要事項の協議や、選挙違反の事実を当局に申告する事を職務とすることを想定した。
政友会きっての選挙制度問題の論客であった木村正義は、選挙粛正委員会について、以下のように述べている。

「各選挙区における政党政派の幹部または官憲などをして、従来の弊風を一掃して、選挙革正の為、協力せしむるを得ば、その効果極めて大なるものありと信ずる。即ち選挙における不法または不正行為は、慣行として永き情勢により行われ居るものなるを以て、これを厳罰主義を以って取り締まるのみにては、目的を達成し難く、むしろこれら幹部に、選挙革正の為の重要なる地位と責任とを与え、その自制自覚に基づきて、従来の悪慣行を自ら放擲せしむるは、極めて賢明の策なりと信ずる。しかして、今や輿論は党弊の打破を叫び、また政党としては、我が健全なる議会政治確立の為、更生の実を挙ぐべき秋なるをもって、選挙粛正委員の設置は我が選挙界粛正の為、相当の効果をもたらすべきものと信ずる」

32年7月に政友会は選挙法改正成案を提出した。斎藤実首相は選挙の自由公正のために、法制審議会に衆議院議員選挙法改正を諮問する。選挙法改正案に対し、法制審議会の賛否は真っ二つになった。
問題の争点は、選挙粛正委員会の権限と構成である。
選挙粛正委員会は職務を理由に内務省の管掌に容喙する事が出来るし、構成員に政党員が入る事で党派性が持ち込まれる恐れもあった。内務官僚は政友会が持ち込んだ選挙粛正委員会について、こうした思惑があるのではないかと警戒していた。
斎藤隆夫(民政党)内務政務次官に至っては、政党員を集めた委員会で選挙を粛正するなど間違いであるし、官僚系委員による選挙干渉が助長されると懸念すらしていた。木村は選挙粛正委員会を政党と官僚の協力の場と考えていたが、斎藤はそもそも選挙は政党が自由に競争する場であり、官憲は一切排除されるべきだと認識していた。

同年11月、法制審議会は1票差で選挙粛正委員会を答申に採用した。しかし、斎藤内閣が議会に提出した衆議院議員選挙法中改正法律案は、選挙粛正委員会の規定を外した。
仮に選挙粛正委員会が選挙法に含まれれば、後に政友会が選挙法を改正する事で、委員会の権限を強化し、選挙の運営自体に発言権を有する恐れがあったからだ。
そこで、選挙粛正委員会を勅令として法制化する方針を取った。選挙粛正委員会は勅令となった結果、一つの諮問機関に落ち着き、自ら選挙不正を取り締まる権限は付与されなかった。政友会案の骨抜きである。

政友会は選挙という政党にとっての死活問題を巡る政策に、発言力を確保するために選挙粛正委員会を構想した。これに対し内務省は政党が選挙政策に介入することを、民政党は官憲が選挙に干渉することを警戒した。その妥協点が選挙粛正委員会勅令化であった。

こうして34年6月22日に衆議院議員選挙法案が成立。35年5月7日に選挙粛正委員会令は発令された。

2. 高等警察の廃止

政党側が選挙粛正に乗り出す中、内務省も選挙粛正に向け動き出していた。
内務省は警察・地方行政を所管し、それらすべてが選挙に直結する為、度々政党の容喙を受け、大規模な選挙干渉に手を染めていたからである。

内務省内で特に選挙干渉に近かったのが、警察権力、特に高等警察である。
高等警察の活動は選挙取り締まりに重点が置かれていたが、各地の選挙情勢分析も同時に行っていた。その分析に基づく得票予想は正確であった。誰が有利で誰が当落線上にあるかが知れれば、危うい候補者にテコ入れをすればいい。このように得票調整を行うことで、歴代与党は効率的に議席を伸ばしていた。
こうして政党と警察は選挙対策を巡り、密接な関係を有していた。

歴代政党内閣の容喙を受け続けた警察ではあったが、党弊是正が騒がれる中、34年5月16日に警察部長会議において、以下の提起があった。

「真に陛下の警察官吏たり、国家国民の警察官吏たる確固たる信念の下に、現在は勿論将来事情が変化して如何なる場合にも際会しまたは如何なる時代となるとも、いやしくも威武に屈し情実に捉われあるいは一党一派に偏するが如きことなく、敢然として公に奉ずるの警察精神を確持することが極めて緊要である」

選挙干渉を根絶するには、警察官の意識を改革し、選挙取り締まりの公正さを確保するしかないと認識されたのだ。どのような時代となっても、警察は政党政派から超然でなければならない。
35年5月、警察組織改変により、選挙干渉を担ってきた高等課が廃止され、新たに防犯課が設置された。選挙に関する高等課の職務を分離することで、選挙干渉の排除を組織面から確保しようとした。選挙の取り締まりは防犯課が行い、府県レベルの選挙取り締まりは刑事課に移され、選挙情報の収集や得票予想は全廃した。
このようにして警察組織は改革され、選挙違反の取り締まりに絶対公正を期すことが警察の使命となった。

3. 選挙粛正中央連盟

民間の間でも選挙粛正の動きが高まる。選挙粛正委員会令が公布されたと同時期、後藤文夫内相が中心となって、国民の選挙に対する意識を改革するために、民間機関の選挙粛正中央連盟が結成された。連盟は内務省、地方自治体、メディアといった官民の総力が結集し、目覚ましい活躍を見せる。
連盟は選挙不正根絶の為に頻繁に演説会を開催し、印刷物は選挙粛正の歌を作り、映画を作成し、ロゴやスローガン入りのマッチを配布し、時には飛行機による宣伝を行っていた。
連盟はありとあらゆる手段を用いて、選挙に関する草の根の啓蒙活動を続け、選挙権のない女性や子供にまで選挙の浄化を訴える事に成功した。

4. 35, 36年粛正選挙

官民一致で取り組んだ選挙粛正運動の下で行われたのが、35年秋の府県会選挙と36年の衆議院総選挙である。粛正選挙について政党は肯定的な姿勢を見せていた。選挙粛正によって公平で公正な選挙が行われれば、政党内閣制復活の正当性が担保されると認識していたからだ。
鈴木喜三郎政友会総裁は「この際大に選挙界を浄化して、政界更新に一大貢献をしたい」と述べ、町田忠治民政党総裁も「真に国政を担当するに足る内容と外観とを供えてなければなりません」と述べるなど、選挙粛正運動に前向きであった。

そうして行われた35年秋の府県会選挙、36年衆議院選挙の結果は、政民既成政党の勝利であった。36年衆議院選挙は政友会が100議席以上減らす結果ではあったが、総じて政民二大政党健在を見せつける結果であった。こうして国民の信任を得た既成政党は、公正・厳粛に行われた選挙の結果を、政党内閣制復活の正当化に用いようとした。

東京朝日新聞は35, 36年選挙の結果に対し「独裁主義的風潮が民心を動揺せしむるに足らず、議会主義が全面的に国民の支持を受けた」と論じ、選挙自体については「粛正選挙の本質的傾向が、立憲政治擁護に存したことも与つて力があった」と評した。新聞各紙は粛正選挙によって不正行為は一掃され、選挙運動は一新したと概ね評価していた。
しかし、この選挙結果によって政党が国民の信頼を回復したとは見なさず、以下のように政党に厳しい目を向けていた。

「粛正選挙が民政党を第一党として政友会を第二党としたことは、単純なる現状維持の肯定とは解し得ない。議会政治による合法的革新を信じ、政党の更生による政治的非常時打開を指示して、この時局を救済せんとするの意思表示であると見なければならぬ」

また、前回総選挙より3%程度棄権率が増加したことに注目し「主たる国民投票の対象となる二大政党の態度が、かくの如く選挙の意義を疑わしむるやうな点があった」と断じた。メディアにとって既成政党は未だ憲政を阻害する存在であった。

総選挙に対する評価はさておき、粛正選挙を戦った当事者たちは、選挙粛正運動について賛否両論であった。
選挙粛正運動の結果、官憲の選挙干渉はなく、票を集める選挙ブローカーも消え、選挙費用も大分抑えられたとの声がある一方、問題点も浮き彫りになる。

36年5月9日の衆議院予算委員会において、民政党の司法通である武富済が質問演説に立ち、以下のように述べた。

「弊害がまた非常に多大であったということを見逃す訳に参らぬ。取り締まりは苛察酷烈を極め、結局選挙の粛正は選挙の萎縮となり、棄権は拡大した。民衆をして選挙運動から逃避せしめた。触らぬ神に祟りなしということになる。これは明らかに立憲政治の進歩を停頓せしむる国家の一大損害である」

武富は、粛正選挙の過程で重大な人権侵害が発生したと指摘し、司法省や内務省を追及した。その具体例として、選挙違反の嫌疑で40日間も拘束されたり、椅子に座らせた被告の膝の上に巡査が土足のまま乗って侮辱したり、焼火箸で殴って火傷させたり、胴締めの拷問を行ったり、天井に吊るし上げて革ひもで打って自白を強要させたという事例を挙げた。しかも、この調査の過程で、警察が関係者に事件を口外しないよう誓約書を書かせて証拠隠滅を図ったという、組織ぐるみの犯行まで明らかにしている。
武富は以下のように政府を厳しく批判している。

「国家権力を挟んで居る所の官公吏、司法警察官たるものがその権力をほしいままにして、民衆を拷問し、凌虐し、負傷せしめ、甚だしきは死に至らしめ、もしくは自殺を決せしむるに至るということは、実に容易ならざる聖代の不祥事」

河原田内相は警官の不祥事を認め、塩野法相も司法警官の職権乱用や拷問の事実を認め、今後このような不祥事を起こさないよう対処すると答弁した。

このような人権蹂躙の背景には、選挙違反に対する厳罰主義があった。
法相が粛正選挙に際して選挙違反を厳罰に処すと訓示したように、選挙違反と他の違法行為は区別され、選挙に関係していない収賄罪が執行猶予ないしは罰金刑であったのに対し、選挙違反が絡んだ収賄罪が禁固刑となるなど、選挙違反に対しては厳罰主義が採られた。これにより実際に選挙違反を取り締まる官憲は強引な取り調べを繰り広げ、各地で凄惨極まる人権蹂躙事件が多発した。

選挙違反撲滅を訴えてきた美濃部達吉も、選挙違反の厳罰化については以下のように懸念を表明している。

「選挙の弊害を矯正することの目的を超越して、かえって国民をして選挙に対する関心を失わしむるの憂いあるものではなかろうかを恐るるものである」

既成政党は選挙粛正運動の利便性を認めつつも、苛烈な厳罰主義や人権侵害は許さないと主張した。事実に基づく既成政党の追及は鋭く、政府は劣勢に立たされた。
政党の警察批判は鋭く、警察が右翼を厳重に取り締まれば226事件は防げたのではないか?との指摘もあったほどであった。

5. 衆議院議員選挙法改正決議案

既成政党は、選挙粛正を指導した司法省・内務省官僚に反撃を加えた。
36年5月22日、町田民政党総裁らが衆議院議員選挙法改正に関する決議案を衆議院に提出した。この改正案の内容は、簡単に言うと選挙運動取り締まりの緩和である。

そもそも34年の衆議院議員選挙法改正は選挙運動を厳しく制限していた。
ざっと挙げると
・事前運動(選挙前の演説や推薦状発送)の禁止
・選挙委員を20名までにする事
・選挙事務所を一箇所にする事
・選挙費用を9千万円までとする事
・選挙事務長が犯罪を犯せば、連座制を適用し、当選を無効にする
・選挙広報については一人3000文字までとする
など、選挙運動をがんじがらめにしていた。

民政党が提出した改正案は、事前運動や第三者の選挙運動の解禁を始め、一定の選挙活動の自由を求めたものであった。5月23日には政友会・民政党・昭和会・国民同盟が衆議院議員選挙法改正を決議した。

既成政党による衆議院議員選挙法改正の動きに、メディアは再び厳しい目を向けた。東京朝日新聞は選挙法改正を提出した政党の言い分に対し

「今期議会でしばしば問題になる人権蹂躙問題は、いずれも先般の総選挙に際しての違反事件に関連するものであるが、無論人権蹂躙の事実はあくまで糾弾すべきではあるものの、議会の空気は往々糾弾を利用して選挙粛正を牽制し、今後の厳正取締を阻止せんとする傾向あるやに看取せらるるのを憾みとする。全て事物の改革には若干の犠牲と苦痛を伴わねばならぬが、絶対無痛の上にあわよくば自家の縄張りを拡げようという虫の良い改革案に、誰が真面目に耳を傾けようか」

選挙粛正と厳しい取り締まりは不可分なのに、人権蹂躙を理由に取り締まりを無効化しようとしている、という痛烈な批判である。改正案自体にも、選挙人本位ではなく、候補者側の便宜主義に出ていると、厳しい論調であった。
マスコミの理論は、そもそも普通選挙によって選挙権を拡張したのは既成政党を打破しようという国民運動であったはずなのに、それを既成政党は逆手に取って党勢を拡大し、数多くの失政を積み重ねて政治不信を招き、日本に非常時を招いた、というもので、既成政党に対する厳しい目が向けられていた。
東京日日新聞も、以下のように厳罰主義を擁護している。

「取締当局をして、かくまで選挙違反に神経過敏ならざるを得なからしめたそもそもの種は、一体誰が撒いたのであるか。結局候補者各自及びこれを囲繞した選挙運動の当事者ではないか」

読売新聞に至っては、既成政党が人権蹂躙問題を騒いだ理由を以下のように断じている。

「選挙違反事件の被告に拷問を受けた者があったからのことで、その他の普通犯罪や社会運動事犯だけなら、大抵は知らぬ顔をして居るのである。選挙違反の場合だけは、お手柔らかにというような態度では、この問題は何時になっても解決しない」

つまり、既成政党が人権蹂躙問題を取り上げるのは、官僚に対する牽制に過ぎず、選挙運動の自由を確保する目的があると喝破したのだ。
既成政党が人権蹂躙根絶に関する決議案を行なった際、社会大衆党(社大党)は選挙違反だけでなく政治犯などの全ての違反に対する人権蹂躙根絶を決議し、憲法の保障する政治的自由を確立すべきだと主張したが、その意見は退けられている。

社大党は選挙法改正案に対しても異論を唱えた。改正案が選挙権の拡充や選挙区制の変更といった選挙制度の抜本的改革ではなく、従来の選挙制度に固執するものであると批判し、この改正案では選挙腐敗の復活に繋がるので粛正選挙を徹底すべきだ、と説いている。
東京朝日新聞も、以下のように、選挙法改正は政党本位の立場ではなく国民的立場から抜本的に見直すべきだと論じている。

「選挙制度改革は既成政党議員候補者本位の選挙法を、選挙人の選挙の自由本位にすることにある」

なお、衆議院選挙法改正案は会期中に広田内閣が総辞職したことで、議会の提出を見送られている。

6. 作り出された内務省革新官僚像

話を進める前に、選挙粛正運動は内務革新官僚(所謂新官僚)が政党の地盤を切り崩す為に行われた、という解釈に疑義を唱える。
内務省内に新官僚、新新官僚という革新的な思想を持つ官僚の姿があったのは確かである。だが、彼らは果たして選挙粛正運動を政党攻撃の手段と見ていたのか?

実のところ、35, 36年の選挙粛正運動を行うにあたり、内務省は警視総監や地方知事に対し選挙粛正の方針を通知したが、その中に

「粛正運動に当たりては選挙人を教導して粛正の実を挙ぐるを旨とし、これが為いやしくも選挙人及選挙運動者に対し脅威を感ぜしむる如き憂なきを期する」

と、選挙取り締まりが選挙干渉に繋がらないように注意を与えている。この内務省の方針を無視したのは、新官僚ではなく、実際に選挙取り締まりに当たる官憲であった。

では、内務省革新官僚が選挙粛正運動を政党攻撃に用いた、というイメージは何処で作られたのか?それは政友会の議会報告書の一文の中に表れた。

「所謂新官僚の輩が、粛正選挙の好機を籍って官憲テロをほしいままにし、政党撲滅の手段に供した」

既成政党は警察官による人権蹂躙の監督責任を内務省に向け、典型的な官僚批判に繋げたのだ。警察官の人権蹂躙は内務省革新官僚の政党地盤解体の陰謀に拡大解釈され、内務省攻撃に用いられた。このように、選挙粛正運動を政党攻撃に用いた新官僚、というイメージは、政党側が作り出した虚像に近いものがある。

7. 清新明朗な加賀内閣

林内閣

広田内閣は内政・外交に行き詰まり総辞職した。大命降下があった宇垣一成も陸軍内部の支持を得られずに組閣に失敗している。そして大命降下があったのが、陸軍の大物軍人である林銑十郎である。
林は組閣にあたり、既成政党内部の革新派である中島知久平(政友会)や永井柳太郎(民政党)ら閣僚候補に党籍離脱を求め、既成政党に敵対的態度を示し、政務官も置かない超然内閣であった。
しかし既成政党は、気勢を揚げて林内閣に闘争をしかけず、その議会運営に協力し、予算成立直後に議会を解散(世に言う食い逃げ解散)されるに至って、ようやく対決姿勢を見せるなど、気迫を失いつつあった。

斎藤隆夫(民政党)は、既成政党が政府の掲げる「非常時」「挙国一致」の看板に圧され、戦闘意識と勇気を欠き、かといって無条件に追従するのも出来ないので、政府提出の法案を大枠認め、枝葉的な問題の議論に終始しており「政党に義士なし」と嘆くほどであった。
宇垣内閣の流産という異常事態が直前にあり、憲法に抵触しかねない前代未聞の予算修正が行われた議会ではあったが、驚くほど平穏であり、東京朝日新聞はその様子を以下のように報じている。

「衆議院の空気も広田前内閣に対した挑戦的態度とは似ても似つかぬ順応的姿勢を示し、絶縁関係にある政民両党が儀礼的拍手を送ったたりして変態的政情を示していた」

それにしても、そのような従順な議会であったのに、何故林は議会を解散したのか。林は解散の理由を以下のように述べている。

「我々の見るところでは議案審議に誠意がないと感じた」

林が誠意がないと断じた議案審議とは、広田内閣総辞職で流れてしまった衆議院議員選挙法中改正法案を巡る中で起こった、政党の審議引き延ばしである。

8. 食い逃げ解散

衆議院議員選挙法中改正法案は広田内閣総辞職で議会提出を見送られていたが、林内閣は会期切迫を理由に、選挙法改正法案を今期議会に提出しないことを決定した。これを受け、37年3月16日、政民両党はそれぞれ選挙法改正法案を提出した。しかもこれを緊急上程として日程を変更させ、即座に審議が行われた。
しかし、政民両党がひとしきり改正案の趣旨を説明すると、質疑を飛ばして委員付託することが提案された。議場は騒然となったが、政民両党が賛成票を投じ、動議は可決され、後に政民両党の改正案は一本化された。

このような既成政党の数の暴力に、社大党、国民同盟、東方会ら小会派は憤慨した。選挙法は憲法に付属する重要な法律でありながら、既成政党が抜き打ちのように改正案を上程したからである。
その内容も問題であった。広田内閣期の改正案よりも一層取り締まりを緩和したせいで選挙腐敗を再現する恐れがあるだけでなく、婦人参政権や比例代表制などの抜本的選挙制度改革に一切触れていなかったのだ。また、選挙法改正は次の総選挙から適用される附則が慣例であったが、今回の改正案はその附則がなく、直ちに効力を発することで、前回の選挙違反で訴訟中の刑事事件に影響が出る(判決が軽くなる)のではないかと懸念すらされた。
そのせいで、政民両党が改正案を異例の速さで提出したのは、選挙違反の訴訟継続中の被告人を救済するための法廷戦術ではないかと噂されるほどであった。

以上のように改正案の問題点は指摘されたが、政民両党は委員会において小会派の発言を殆ど認めなかった。小会派に所属していた田中耕は

「今回の法案は重大であり、しかも政民両党によって提案されたので、両党以外の人々の発言をある程度まで認めることは重大問題を扱う上で非常に大切である」

と述べて、委員会における小会派の質疑を行うように要請したが、斎藤隆夫委員長は質疑打ち切りの動議を行い、賛成多数で質疑を打ち切った。結局、この改正法案審議の委員会で、政民両党以外の発言は一度しかなかった。

無論、選挙法は憲政の基礎を為す重要法案であり、広く意見を募り、十分に審議し尽くされなければならない。ましてや国民の信任を受けた小会派の意見を抹殺するなど議会軽視も甚だしく、政党本位の誹りを受けるのもやむを得ないし、国民の信頼回復を課題としてきた既成政党が取るべき態度ではない。

こうして改正案は衆議院を通過したが、問題は貴族院であった。選挙取り締まり緩和に重点が置かれ、選挙違反防止に何ら触れられていない改正案を問題視され、貴族院通過は困難と観測された。
そこで政民両党は法案成立の為に政府に働きかけた。会期が迫る中、重要法案を通過させることを交換条件に、改正案成立の同意を求めたのであった。既成政党は、このような駆け引きを超然内閣と行うことに何ら問題があると思っていなかった。

しかしこの駆け引きは、密かに解散の機会を伺っていた林に大義名分を与えることになる。当時、林の周辺には、政友会の中島知久平・前田米蔵、民政党の永井柳太郎、貴族院の有馬頼寧、財界の結城豊太郎、官界の後藤文夫が集まり、近衛文麿を党首とする革新新党を結成する動きがあった。解散総選挙を行うことで、革新政党が議会に打って出て、既成政党に打撃を与えようというのである。林も「時局に目覚めた政党が出来ることを希望す」と述べて、与党となる革新政党が好ましい結果を得るまで、何度でも解散総選挙を行う姿勢を見せていた。

既成政党は自らに有利になる選挙法改正を成立させるために、政府が提出した国防や国民生活に関係する重要法案の審議を引き延ばしにした。政党に誠意はなく、あまりに非国家的な行為であり、政党は粛正しなければならない。この解散は「議会刷新の第一歩」である。という大義名分を掲げた。閣内においても、審議が滞る議会に憤る米内光政海相が、以下のように述べて、懲罰解散を強く主張している。

「政党が議会最終期に至って従前の如く駆け引きを弄せんとする態度に出て何らの誠意を示さざる以上、政府としても断固たる決意を為すべきである」

ただし、林内閣期の議会で審議が停滞したのは政党が意図的に駆け引きを行なったせいでもあるが、会期が短かったにも関わらず審議する法案を絞らなかった事と、政務官を置かなかったせいで議事進行に支障をきたした事も理由であり、全ての責任が既成政党にあった訳でもない。

こうして、37年3月31日、林内閣は予算可決直後に議会を解散した。

9. 37年粛正選挙

政党にとって解散総選挙は寝耳に水であった。
それまで政府に対し是々非々をとってきた既成政党は、懲罰解散など憲政上ありえないし、林は立憲政治に理解もないと断じ、林内閣打倒の共同戦線を張った。一方、社大党は、林”弱体”内閣も政民両党も何も時局を担当する資格がないと断じ、反政府・反既成政党の立場を鮮明にした。東方会も政府の御用新党排撃を唱え、反政府・反既成政党の立場を取る。対して昭和会と国民同盟は政府支持を表明し、既成政党排撃の立場で選挙に臨んだ。

ようやく気勢を揚げた既成政党であったが、東京朝日新聞は冷ややかな目で見ていた。解散理由となった選挙法改正案については、以下のように断じた。

「粛正選挙で手も足も出なかった不都合な官僚をうんと叩いてやろうとしたのであり、更にあわよくば案が通るかも知れないし、そうでなくても次に自分たちに有利な選挙法改正案を期待して先手を打ったに過ぎない」

食い逃げ解散についても、以下のように痛烈に断じている。

「既成政党がその内面の醜悪さを惜みなくさらけ出した悲しい喜劇、自ら墓穴を掘るものの滑稽な姿を見たことであった」

政治学者である木下半治も、既成政党の無気力さを、ナチ党の友党として振る舞い、ナチに弾圧されたドイツ社会党の例を引いて、このように断じている。

「争ふべき時に争はないものは、永久に争ふ資格を有たないものだ」

このように言論界は既成政党に厳しい目を向けたが、37年総選挙の結果は政民合わせて354議席を獲得して大勝した。既成政党以外の結果に目をやると、社大党は議席を倍増させる一方、与党系の昭和会は議席を減らし、国民同盟も議席を守ったが、大敗と言わざるを得なかった。なお、林が企図した革新政党であったが、準備不足が否めず、林内閣の国民的不人気もあって不発に終わっていた。
与党大敗の結果を受け、林内閣は5月31日に総辞職した。

この選挙結果をどう解釈するか、意見が分かれるところである。数字通り既成政党が国民の信任を得ることが出来たと解釈することも出来るし、投票率が八割を切ったことから、国民の選挙に対する期待や熱量が低下したと解釈することも出来よう。社大党の躍進を持って、都市部における社会主義の台頭を指摘する声もある。

解釈は各々に任せるとして、ここで注目したいのは37年総選挙においても選挙粛正運動が行われたことである。前回総選挙における人権蹂躙の反省は、どのように反映されたのか。

37年総選挙の特徴が最も現れたのが、石川県選挙区である。石川県は林首相のお膝元であり、粛正選挙がどのように行われるか、全国的に注目された地区である。石川県警も首相の地元ということもあり、粛正選挙には並並ならぬ意気込みを持って臨んでいた。そんな金沢を中心とする石川県第一区であったが、立候補予定であった林の秘書官が、事前運動を行なっていたことで選挙違反に問われる可能性が浮上し、出馬を断念した。
そこで与党系は、林の組閣本部で活動していた若手弁護士である、長谷長次を第一区に擁立した。長谷は全く無名の人物であるし、第一区に選挙地盤などあるはずがない。そんな予想に反し、長谷は第一区第二位当選という大番狂わせが起きた。

長谷の当選理由は、石川県中の反既成政党票を集めたからであった。それまでの石川県選挙区は政民両党が相乗りして候補者調整が行われ、無投票当選工作が平然と行われる地区であった。しかも前年には既成政党出身の県会議員による賭博事件が発覚し、既成政党に対する石川県民の批判の声は高まっていた。この為に、選挙区内でただ一人既成政党打破を訴えた長谷に、反既成政党票が集中した。

また、長谷は林のお膝元を選挙区としたことから、「林郷土内閣擁護」なるスローガンを掲げて、石川県民の郷土愛に訴えかけた選挙戦を展開する。林は石川県初の宰相であり、同内閣には林を始め、石川県出身閣僚が三人も入閣したことから加賀内閣の異名を取り、石川県内において絶大な人気を博していた。
そのような情勢であったことから、石川県に地盤を持つ既成政党側の立候補者は真っ向から政府を批判出来ず、同郷出身の宰相との対決を遺憾で残念と弁解するなど、苦しい選挙戦を強いられた。
一方、長谷は堂々と林内閣擁護を訴え、郷土の宰相を擁護することが県民の責務であると郷土愛を前面に打ち出して選挙戦を戦い抜いた。どの陣営も長谷の勝利は林人気であると分析した。

長谷の勝利は林人気であったことは間違いないが、この大波乱は粛正選挙の賜物でもあった。選挙粛正運動が徹底されることで票の買収は激減し、代わって言論活動が票を動かすと信じられるようになり、全選挙区に渡り熾烈な言論戦が仕掛けられた。特に、立候補者が政見を発表する演説会は重要視され、前回総選挙の倍の演説会が開催された。選挙地盤を全く持たない長谷は、言論により石川県民の郷土愛を得票に繋げることに成功し、既成政党の地盤を打破したのである。しかし言論が武器になったことで、石川県以外では真逆の結果を生んだ。各党の立候補者たちはこぞって林内閣の非立憲性を攻撃し、この攻勢を前に与党系候補者たちは太刀打ち出来ず、政府支持を取り消したり、立候補自体を取りやめる者が相次いだ。

37年粛正選挙を既成政党側は概ね好意的に捉えていた。
民政党は選挙結果の分析の中で、民政党が結党以来言論を武器にしてきた為、選挙粛正が徹底されればされるほど有利になると理解した。永井柳太郎も、選挙資金に悩むことなく言論に集中出来たし、官憲の干渉もなかったと評価している。
言論に比重が置かれた、理想的な選挙であったと評価する声が大きい。

社大党躍進の原因もここにあった。それまで無産政党の演説会は凄まじい人気があったにも関わらず、官憲の激しい取り締まりを受けたせいで、実際の得票には繋がらなかった。しかし粛正選挙によって政権与党の選挙干渉が根絶されると、有権者の意向が直接反映されるようになる。社大党が躍進した都市部は浮動票が多く、言論戦に勝利した社大党の得票に繋がったと見ることも出来よう。

選挙粛正運動は功罪ありながらも、日本の選挙戦に言論の風を吹かせる事に成功した。紆余曲折を経て公正公明な選挙戦を実現する事に成功した日本ではあったが、次は無かった。次の衆議院総選挙は政党が全て解党し、太平洋戦争の中で行われた42年翼賛選挙であった。国民は日中戦争や日米交渉の是非に対し何ら意思表明を行える事なく、大日本帝国は破滅に向かうのであった。

参考文献

「粛正選挙と与党系新人の進出」 坂本健蔵
石川県選挙区第一区について。
作者が粛正選挙に興味を持つようになった論文であり、非常に面白い。

「選挙粛正運動の再検討ー政友会を中心に」 官田光史
「粛正選挙から翼賛選挙へ」 小南浩一
選挙粛正運動について。

「林銑十郎内閣期における「反撥集団」としての既成政党」 正田浩由
林内閣期における既成政党の動向について。
政民両党の姿勢について、かなり手厳しい評価を与えている。

「広田内閣期の前田米蔵」 古川隆久
広田内閣末期の近衛新党構想について。

「選挙違反の歴史」 季武嘉也
戦前の選挙違反の実態について。普通に面白い。

「内務省の政治史」 黒澤良
内務省と政党の関係について。必読です。

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