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朝はきれいなものだった


凪良ゆうの「汝、星のごとく」を読み始めたらなんだか眠れなくなってしまって、久しぶりに一睡もしない夜を過ごし、朝までかけて読み終えました。いい本でした。

本を閉じたあとの、ため息をついたり天井を見上げたり、カバーを外して本体表紙の手触りを確かめたり、また天井を見上げてみたり、そういう時間を終えたあと。時計を見るともうすぐ午前4時。窓を開けてベランダに出てみる。まだ辺りは真っ暗で、本を開く前に見た夜の姿と変わらないけれど、あの時よりもほんの少しだけ空気が冷たくて、街もしんとしている。

朝のにおいがしている。

部屋に戻ってパーカーを羽織ると、そのままキッチンへゆき、ヤカンを火にかけた。インスタントコーヒーの粉をカップに入れ、腕を組んで青い炎を見つめながら、思う。日の出までは、あとどのくらいだろうか。

湯気の立つカップを持ってもう一度ベランダに出ると、まだ変わらず暗いままだった。サンダルが少し冷たいけれど裸足がいい。コーヒーをすすると、インスタント特有のどこまでもシンプルな苦い味が、なんだか今はとても心地よかった。
夜の姿をしたまま、確実に明日が始まっていることが、空気から伝わってくる。こんなに暗いのに、今はもう夜とは違う時間であることを感じる。

「あさ」

小さく、声に出してみる。閉じていた喉がかすかに開く。「あさ」を発音するために、体が確かに活動する。まるで初めて「朝」を声に出してみたかのように、その活動の心地にはっとする。
「あ、さ」
もう一度言ってみる。「夜」とも「昼」とも、「夕方」とも「深夜」とも違う、「朝」の心地がする。

眠れずに朝を迎えたことも、早起きをして日の出を見たことも、これまでに何度もあった。
けれどこんなふうに、まったくの無目的に、なんの付加価値もない朝を、こんなにもからっぽな心で待ったことがあっただろうか。
今はただ、朝が見たい。
それだけの気持ちでベランダに立っている。

気付けばいつのまにか、暗かった空は青くなりはじめている。
手すりから身を乗り出してみると、遠くに見える街の奥に、これから昇る赤が見えている。
ほんの少しの間その赤を見つめただけなのに、ふと見上げた頭上の青はさっきよりさらに明るくなり、紫に向かって色を移してゆく。

朝だ。

すう と吸い込んだ空気の冷たさと瑞々しさに、自然とまぶたが持ち上がる。

朝だ。

いつしか空はすっかり明るく、雲にも色がついている。それでも遠く、まだ昇りきっていない太陽は夕焼けによく似た朱色に燃えて、街はまだ黒い影のままだ。

あさだ。

思えば今まで、夕方や夜のことばかりを文章にしてきた気がする。
朝という時間はどうしても、元気な日には忙しく、憂鬱な日には気だるくて、夕方や夜のように、それそのものをまっすぐ見つめるような場面が少ないからかもしれない。
もしかしたら生まれて初めてのことなんじゃないかと思うくらい、ただただ朝を見ていた。

朝は、きれいなものだった。





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