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慶応と上久保ゼミの埋めがたい差

露骨なタイトルになってしまいましたが(笑)。まあ、私はほんとのことしかいいませんので。

9月8日(木)、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)で、恒例の清水唯一朗先生のゼミと上久保ゼミのインゼミが開催された。

学生の研究発表と、清水ゼミVS上久保ゼミのディベートを行った。一見、その場のパフォーマンスとしては、互角というか、そんなに明らかな差はみられなかった。その意味では、うちの学生は自信をつけた部分もあっただろう。

だが、私は清水ゼミとの間には、埋めがたい差があると感じた。

それを、秋学期の第一週のゼミ(9月29日)で話した。慶応との差というのは、研究をなんのためにするのかという意識の差だった。

清水ゼミだけでなく、慶應SFC全体の「空気」が生み出すものだと思うのだけれども、清水ゼミの学生は、自分のやるべきことがある。既に起業していたり、社会的な活動をしている学生がいる。将来進むべき方向が明快な学生が多い。そして、自分がやるべきことの「理論化」のために研究があるようにみえる。

端的にいえば、まず自分があって、自分のために研究をするということか。

一方、上久保ゼミの学生は、研究をまじめにやってはいる。おそらく、研究を精緻にやっているという点では、上回っているのかもしれない。しかし、なんのために研究をするのかと聞けば、おそらく明快な回答は返ってこないだろうね。

研究は、大学のカリキュラムとして決まっているから研究をする。要は、「受け身」なのである。人生も、自分の人生を切り拓くというより、入れた会社で人勢が決まる、と考えているのだろう。

これはも、OIC(立命館大阪いばらきキャンパス)の雰囲気がそうさせるのだろう。

言い換えれば、清水ゼミと上久保ゼミの差とは、「起業」した新しい時代を自ら切り拓こうとする学生がゴロゴロいるキャンパスと、みんな一斉に「就活」する保守的な社会の中で生きていこうとする学生がいるキャンパスの差か。

その差は埋めがたいと痛感したインゼミだった。



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