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親父と俺(3):19680530

いったいなんの数字かと思うだろうが、私の誕生日である。

その日、お袋さんは、バスに揺られて、勤務先である内子町の立川小学校に向かっていた。

昔は、国道でも舗装されてないところが多かったんですよ。内子を通る国道56号線はまだマシ。

大洲のもう一本の国道である197号線は、通称「いくな線」(笑)。大洲市街を向けて、菅田、肱川町へ向かうところは、ほとんどが舗装してない土砂道。ガタガタ揺られて酔ってしまうし、トラックと何度もすれ違い、土砂をばっしゃーんと車にかけられる。窓から外を見ると、「落石注意」の標識が。岩が落ちてきたら終わりの恐怖(笑)。

なんとなく、昭和40年代の日本を思い出す方もいるんじゃないでしょうか(笑)。

まだまだ、高度成長中の開発途上国だったわけだ。

それで、お袋さんに話を戻すと、ガタガタ道をバスに揺られているうちに、お腹の中にいた私が目を覚まして、慌てて出てこようとしてしまった(笑)。お袋は病院へ。

私がこの世に出てくる予定日は「7月1日」だった。
ほんとはお袋さんの実家の三瓶町(明徳義塾・馬淵史郎監督の故郷でもありますね=笑)の病院でこの世に出てくる予定だったのに、内子町の病院になってしまった。

1か月も早産だったせいで、私の母子手帳には「仮死」と記されていた(笑)。

母方のばあちゃんがこの世に出てきた私を見て、

「うんだやのう!(びっくりした、という意味の愛媛・八幡浜・宇和島あたりの方言)こんな小さな赤ん坊は初めて見た」

と叫んだという(笑)。手のひら位もなかった。

その上、出てきても泣かない。親父がパシパシっと叩いて、初めて小さく「ひー、ひー」と泣いたとか。だから、母子手帳に

「仮死」

となった。
この出生は、意外と私という人間に大きな影響を与えているように思う。

死んで生まれてきたからこその生への執着、執念というかね(笑)。
後に、自他ともに認める

「上久保強運伝説」

という、人生の勝負どころでの異様な強運(笑)も、ここからきているように思うんだよね。

あとね、やっぱりせっかち。
かつて、有楽町で行われた松山千春のコンサートに開演5時間前に着いた伝説を持ってますからね(笑)。

この世に出てきた時から、せっかちだったわけだ。

それはともかく、1カ月早くこの世に出てきたせいなのかどうか、幼少期の私は、とにかく周りと比べてなにもできんというか、遅れたところが大きく、むちゃくちゃひ弱な子どもでした。

そこに何度となく登場してきたのが親父であった。

いや、優しく、甘く助けてくれたのではない。時は、少年マガジンで

「巨人の星」「あしたのジョー」

の連載中(笑)。
星一徹の芸術的な「ちゃぶ台ひっくり返し」、

「じょおおおおお、立つんだ、じょおおおおおお」

の丹下段平のオッチャンの叫びに世の中が感涙にむせんでいた時代。

「天才バカボン」

もやってたはずなんですけどね(笑)。

その上、1歳の時には、伝説の

「第51回全国高校野球選手権大会決勝戦・松山商対三沢の延長18回引き分け再試合」

があった時代。そして、松山商の卒業生ではなく、あくまで大洲高校の卒業生のはずなのだが、なぜか

「松山商業キチガイ」(通称「松キチ」)

であった親父が、伝説の名将・一色俊作監督顔負けに、私をしばき倒して鍛えまくったのだ(笑)。

それでは、ここからは、鬼軍曹・親父により息子が形成されていく物語の始まりです(笑)。

今日は、「(笑)」ばっかりやな。いや、もう今となっては笑いですよ、この物語は。

それでは、またね。



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