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親父と俺(12):野球との出会い。3日目、バットにボールが初めて当たった
小学1年生の1学期の終業式の日。初めてもらった「通知表」で体育が「1」だったことで号泣しながらうちに帰った。
勉強がどんなにできても、それは悔しかった。体育の時間に女子と激突してしまい、それ以降どんなにがんばっても、かけっこはビり続きだったことも相当にがっかりだったのだろう。
そんな1年生の夏休みのある日、親父が腕になんか抱えて家に帰ってきた。
バットとグローブとボールと、赤ヘルのヘルメットだった。
体育で「1」をとって落ち込む息子をなんとかせんといかんと思ったのだろう。それで、野球をやらせようと思ったのだろう。
当時の上久保家は、野球を中心に回っていた。それも、高校野球が中心。「松商キ〇ガイ」だった親父は、週末になると、大洲市に住んでいるにもかかわらず、熱心に松山市旭町の松商グラウンドに通っていた。
私の最初の野球のかすかな記憶は、松商グラウンドだ。それも試合ではない。ノックを受ける部員の姿。エラーを連発する三塁手。そのうち、ノッカーが怒って、「素手で取れ!」という。さらにエラーをしてしまう。そりゃ、グローブで取れないのを、素手で取れるわけない(笑)。いまから思えば、合理性も何もない練習だが、当時はそんなもの。
「松山市営球場」の記憶もありますよ。小学校に入る前、最初に記憶にある松商の選手は、
「武智勇治」さん。
4番1塁手。1,2回戦あたりではボカスカ打つが、準々決勝、準決勝。。。となると盆フライ連発、と親父がよく言っていた。甲子園にはいけなかったが、その後駒大で1年からクリーンナップ。中畑清さんの同時期に活躍。東芝に進み、アマチュア全日本にも選ばれた。
通すぎますよね。。。(笑)
あと、「西本聖」さんの高校時代の記憶もかすかにありますよ。でも、当時は、親父に連れていかれてただけで、興味も関心もないインドア派でした。
それを一変させる、親父の特訓が始まった。親父の特訓は、それまでも、今後もあるのだが、これが最大の特訓だった。
家の前の広場で、親父がボールを投げて、私が打つ。。。
いや、打ってはいない。バットに当たらないのだ。
投げる、空振り
投げる、空振り
投げる、空振り
投げる、空振り
延々と、これが続いて、1日目終了。
普通は、これであきらめるよね。
ところが次の日の朝も親父と私は、
投げる、空振り
投げる、空振り
投げる、空振り
投げる、空振り
昼食を食べて、再び広場で
投げる、空振り
投げる、空振り
投げる、空振り
投げる、空振り
結局、夕方までバットにボールは当たらないままだった。
さすがに、これで普通はあきらめる。これは「見込みナシ」だと。
ところが、3日目の朝、親父と私はまたも広場へ。
投げる、空振り
投げる、空振り
投げる、空振り
投げる、空振り
昼食。みかねたお袋さんが「もうやめなさい」と声をかけた。
しかし、親父は午後も「よし、いくぞ」と広場へ。
投げる、空振り
投げる、空振り
投げる、空振り
そして、もう日が暮れそうな夕方になって、
投げる、バットにかすった。
親父と私、「当たった、当たったぞ」と狂喜乱舞。
その後、私は大洲南中で4番を打つ強打者になりました(笑)。
お袋さんは親父をみて感嘆したそうだ。「教育とは、ここまでとことんやるということなのか」と。