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上久保ゼミのクリティカル・アナリティクス「告発系YouTuberは存在すべきか」
学生の議論はこちら。
大きな視野を持って俯瞰してみるならば、社会への参加者が増えることは、いいことだ。これまで物を言うことができず、排除された人が社会に参加できるのはSNSの大きなメリットである。
また、これまでメディアという、1つの「強大な権力」と呼ばれているものが情報を独占していて、一般の人々が知ることができなかったことを知れるようになったことも、基本的には悪い事ではない。
また、これからの社会は、なにをするにも、どこにいるのにも「リスク・ゼロ」ということはありえない。リスクなしで国家や大企業などから守られた社会は、もうないと認識すべきだ。リスクとどう折り合いをつけていくかが大事なことである。
これが、俯瞰的な見方だと思うけれどもね。
私は、この論考で書いたけれども、YouTuberの影響力って、過大評価しては世の中を見誤ると思っている。
確かにYouTuberの影響はある。ただし、どの程度人々の判断に影響を与えるのかは、簡単にはいえないということなんだよね。
YouTuberの影響をもろに受ける人たちはいる。だけど、それは社会全体からすれば、いまだ「ノイジーマイノリティ」にすぎない。
兵庫県知事選に関しては、SNS上の情報で感情的になった「県外の人たち」とは異なる、SNS上の情報に触れて、いわゆる「オールドメディア」の報道に懐疑的になり、「ニュートラル」に戻った有権者が、斎藤氏と対立候補たちを冷静に比較して投票したと考えられるわけだ。この人たちが「サイレントマジョリティ」である。
真に検証すべきは、このサイレントマジョリティがSNSから受ける影響なんだろうなと思う。
まあ、端的にいって、学生たちの議論をみてもらえたらいいと思う。彼らはしっかりとこの問題について学び、多角的に、深く検証できているでしょ。極めて冷静に分析しているでしょ。
この姿勢があれば、正しい情報がなにか判断しきるのは難しいかもしれないが、怪しげな情報が氾濫しても、それに惑わされることはない。
リスクに対して、落ち着いて対応できるということだ。
大事なことは、学び続けること。周りがどうあれ、自分なりに、常に教養を身に着けて、知性を磨く。その謙虚な姿勢を守り続けることを、私は学生に説いています。