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親父と俺(11):密かな誇り

「親父と俺」は、基本的に私が子どもの頃から書いていくつもりだが、時にはいろんな時代を行ったり来たりしながらとも思っている。

今日は、現在の話を書こうと思っている。先週末、私の大学時代の部活の「納会」にOBとして出席した。

私が大学時代に何をやっていたかは、知ってる人は知っているだろうが、ここではその名前は記さない。SNS的に、すべてオープンだと微妙なところがあるスポーツなので、現役生のSNSもOBOGなど限られた範囲でやっている。

だから、私も部の名前は記さない。

まあ、いわゆる「本チャンの体育会」。昔は「早稲田大学体育局」の公認の部の1つ。今は、「早稲田大学競技スポーツセンター」、略して「競スポ」というらしい。

中身は変わらないが、「体育局」というのと「競スポ」では、ちょっと響きが違うというか、やっぱり「体育局」のほうが権威がある(笑)。

そんな時代ではないのは、もちろん承知しているが(笑)。

そういえば、私などOBOGが現役の学生に話をするとき、枕詞のように

「もちろん、今は駄目なのはわかってるけどね」

要するに、昔の部活動の日常は、すべて「パワハラ」なのだということをわかってるよとしっかりアピールしてから、昔の武勇伝を語る(笑)。

もう、こういうのはやめましょう。

しかし、現役生の会にOBOGとして参加するのは、長年気が引けていた。なぜなら、私は現役時代、へたくそでレギュラーを張ったことが一度もなかったからだ。

早々に、選手としての可能性を見限られたか、2年生で学連委員となり、幹部になり、4年生では学連幹事長になった。それはそれで、私に合っていたし、成長することができた。大きく人生を花開かせることができた。

だが、やっぱり体育会は、選手としての実績が一番ですよ。それがないのが1つのコンプレックスとなってきた。

だが、ある時カミさんとそのことを話していた時、言われたんです。

「全国大会(インカレ)に出たんでしょ?スポーツの全国大会。すごくない?」

確かに、インカレには出た。4年生の時、関東大会の個人戦を「最下位」で突破し、最後の最後に出場できた。

そう、最後の最後に。

私は、スポーツを小学4年から本格的に始めた。スポーツ少年団のソフトボール、サッカーから始まって、中学では野球、陸上(800メートル走、駅伝)、高校では本格的に陸上(400、800メートル、4X400メートルリレー)、そして大学で早稲田の体育会。

これだけをみれば、清原正吾君にも負けてないスーパーアスリートにみえなくもない(笑)。

早稲田の体育会といえば、同期は水口英二、堀越正巳、今泉清、ヨーコ・ゼッターランド(堀江陽子)にピストン堀口の息子もいたな(笑)。1つ上の学年は、小宮山悟や清宮克幸だ。

だが、実際私は、いろんな種目をやって、どれも三流で終わった(涙)。まあ、球拾いということはなく、どれも試合には出れた。ただ、たいした結果は出なかった。

目標はあった。中学一年の時、野球部の先輩が県大会で優勝し、四国大会の決勝まで進出した。決勝で、高知中学(あの高知高校と同じユニフォーム)に敗れたのを見た。

高校の陸上部でも、インターハイに進出する先輩がいた。

「スポーツで全国大会にいく」

というのが、私の無謀な目標となった。だが、残念ながら、それは遠かった。

大学でも、周りの同級生は、レギュラーになったり、個人戦で出場したりで、インカレを下級生の頃から経験した。私は、インカレの運営はやっていたが(笑)、自分は出れなかった。

4回生の時、インカレ出場が「棚から牡丹餅」的に転がり込んできた。学連幹事長だから、他校にも顔が広かった。私が出場した時、いろんな学校の仲間が、冷やかしながら、励ましてくれた。

結果は、個人戦最下位(号泣)。

このスポーツをやっていた時代は、私にとってはある種の「黒歴史」であった。苦労に苦労したけど、モノにならなかったなと。

しかし、カミさんからシンプルに「すごいじゃない」と言われ、眼からウロコだった。

「棚から牡丹餅」と黒歴史にしてきたけど、考えてみれば、スポーツをやって13年間、最後の最後の年に「全国大会」に届いたという解釈は可能だ(笑)。

私は、実は13年間夢見た目標を、達成していたのだ。

それ以降、私は考えを変えて、この目標達成を「密かな誇り」とすることにした。

まあ、考えてみれば、うちの学部の教授会メンバーで、スポーツの全国大会出た人、実は他にいないのだから(笑)。

スポーツの一つの種目を極めた人は、それはすばらしいけれど、私のようないろんな種目で苦心惨憺「三流選手」を13年も続けて、最後の年に全国大会に「棚牡丹」出場で最下位というのも、なかなか味があると思いませんか?(笑)。

そして、そんなドタバタなスポーツの道に私を導いたのが、親父だったわけです(笑)。その話は、次回から。


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