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「意味なき礼儀」が人間的未成熟を生む

私の家の近所に高等学校がある。その野球部が近所の街の朝の清掃をやっている。人間的成長を目的としたものだろう。

ところが、その野球部員たち、清掃中に私語がうるさく、街の人が通りかかっても挨拶をしない。

ダベりながら、ほうきをダラダラと動かしているだけだ。

この野球部も、練習や試合になると、直立不動で監督の話を「聞いたふり」し、大声で「オース!」と挨拶をするのだろう。

しかし、街でのやったふりの清掃活動と、街の人に挨拶もしない態度をみると、いったいこの試合・練習時の礼儀正しさとは、なんの意味があるのだろうかと思う。

これは、近所の高校がたまたまだらしないのではないと思う。どこの地域のどんな高校野球部をみても、似たようなものだと思う。

礼儀正しさは大事なことだというのは間違いない。しかし、なぜ礼儀正しくなければならないかをわかっていなければ、ただ大声を張り上げる軍隊式のパフォーマンスをやっているにすぎず、なんの意味もないものになる。

そうなると、礼儀正しさ求めることが、人間的な成長をもたらすのではなく、ただ言うことを聞いて大声を張り上げるだけの、幼稚な子でいることを強いることになってしまうのだ。

話は少し変わるが、大学でもよく「規則を守りなさい」という。ところが、規則を作れば作るほど、問題が起きたりする。

うちの学部の場合、例えば海外フィールドワークに学生を連れて行ったりする。行く前にもう、「あれするな、これするな」と規則が作られる。朝、起きたら点呼、朝礼、単独行動はするな、あれを食べるな、あれを飲むな、そして門限だ。

それでも、問題ばかり毎年起きる(詳細は伏せておきます=笑)。

こういってはなんですが、私が引率した時、2回生であっても、ゼミであっても、一度も問題が起きた事がない。

2回生の時は、学部のルールに従って規則は作るが、3回生以上のゼミで香港やサハリンにかつていったときは、最大限規則は緩やかにしたにもかからわず、問題が起きなかった。

ゼミで香港に言ったときは、私は現地集合、現地解散にした。1日目は、学生と私は別のホテルに入り、2日目の午前・昼食、学生は現地の学生と先に会って交流・昼食。私は午後に大学に入り、学生が参加する授業の教室で初めて合流という形だった。

ある年、学生が体調を崩した時があったが、学生たちはカード会社が紹介する日本人向けの病院に行き、診察を受け、薬をもらった。私には事後報告だった。

どうしてこんなことができるのかって?

私は、「1人で海外旅行して、問題を起こす学生はいないだろ?自分で旅行するつもりで考えて準備せよ」と指示しただけだ。

そうすれば、学生は「海外ひとり旅」と同様に準備する。旅行中も自分の旅行として、慎重に行動する。そうすれば問題は起きない。考えてみれば、当たり前のことだ。

一方、集団のフィールドワークで問題が起きがちなのは、先生が段取りした旅行で、先生が作った規則に従っているからだ。先生に頼ってしまっているから、自分一人の旅行だったらしっかりするところも、甘えてしまうからだ。

学生を成長させたいならば、礼儀正しさを強要したり、規則を守れというよりも「大人扱い」だと思う。

指導者の側が目的を与えて、そのための規則を作って、「あれしろ、これしろ」「あれするな、これするな」を強いると、学生はそれを守ることだけになる。考えることをやめて「子ども」のままになる。

そのうち、本来の目的はどこかにいって、守ることだけが目的化する。守ることに必死になると、それがストレスになり、隠れて破ろうとする。もっとひどくなると、爆発する。

一方、大人扱いとは、まず「目的」を自分で決めさせる。拙くてもいい。自分で決めて、私とシェアする。

そして、目的を達成するために、朝起きてから、夜寝るまでの間、どのように振舞い、努力をするかを考え、行動することを続けることだ。そして、自らやるべきことと、我慢することを覚えていく。

目的を達成するために、周囲の人に礼儀を尽くす必要があれば、自然に礼儀が身につくことになる。

野球でも、勉強でもなんでもいいが、目的を達成するために自ら一生懸命頑張ることを通じて、人間的な成長を促すことだ。













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