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総選挙(2)「民主党政権」はなくても「細川政権」の再現はあるかも。そして玉木雄一郎?(笑)
予想以上に自民党の情勢が悪いね。
今回の総選挙、野党側の候補者調整が進まず、自民党に対して野党がバラバラに挑む構図となっている。「反自民」ではあっても、自民党と戦う以前に野党同士で票を奪い合っている。
そのため、「政権交代」が起きることは、まずないだろうと思われてきた。まあ、そもそも論として、選挙以前に、野党側は政権を担当する準備がほとんどできていない。
2009年の民主党政権は、極端にいえば1996年の結党以来、政権交代を目標としており、政策や統治機構の改革を、一応練り上げてきたものだった。
まず、民主党政権は、自民党政権と違う「国家像」を打ち出していた。
自民党政権は、公共事業によって間接的に男性労働者の雇用を守り、企業と女性による福祉の提供で、「小さな政府」を維持してきた。だが、企業はグローバルな競争に直面し、企業福祉を削減した。また、家族形態の多様化で、専業主婦による家族福祉が成り立たなくなってきた。
民主党は政府が直接福祉を提供する、欧州の「福祉国家」的なシステムへの転換を構想した。それは、「コンクリートから人へ」という明快なスローガンで表現された。公共事業が大幅に削減された。
一方、総選挙の「マニフェスト」で約束した、中学卒業まで月2万6000円の「子ども手当」「高速道路の原則無料化」「農家への戸別所得補償」「高校無償化」という、欧州の社会民主主義的な政策を予算に組み込んだ。
「統治機構改革」の構想も練り上げていた。自民党政権下の政策立案を「官僚丸投げ」と批判し、首相直属の機関である「国家戦略局」と「行政刷新会議」を新設して、予算の骨格や重要政策、国家ビジョンを策定し、省庁間や政府内の政策調整も官僚ではなく与党政治家が行うという構想を立てた。
また、自民党政権では政策立案の中心だった「政務調査会」と「与党事前審査」を、民主党は廃止した。
自民党政権では、族議員やさまざまな業界団体が利益獲得を求めてのさばった一方で、首相など閣僚はほとんどこの過程に関与できず、内閣よりも党が実質的に政策決定権を持つ「権力の二重構造」が問題となっていたからだ。
民主党は、与党事前審査の代わりに、副大臣が主催し、与党議員と意見交換する「各省政策会議」を開催し、「権力の二重構造」の解体を目指した。
要するに、民主党は2009年の政権獲得時に、グローバリゼーションに対応して、自民党政治を抜本的に改革し、国家像を転換する壮大な構想を描いていたということだ。
しかし、民主党政権は、社会民主的な政策を実現するための財源不足の問題に直面した。結局、2010年の参院選の敗北で、参院で過半数を失う「ねじれ国会」となったことで、すべての構想は、当時の野党、自民党・公明党に阻まれてしまった。
その上、官僚組織をうまく動かすことができないこと、「寄り合い所帯」と批判された党内の政策志向の分裂により、稚拙な政権運営となったことも、改革を頓挫させた要因となった。
民主党が描いた国家改造ともいうべき構想そのものの是非は、ここでは評価しない。しかし、当時の民主党の政治家たちが長い時間をかけて、統治機構から個別の政策に至るまで、新たな日本の構想を練り上げることに、真摯な姿勢で取り組んだことは間違いない。
それに比べて、現在の野党は、自民党政治に代わる国家像を提示することもなく、政策も準備できていない。到底、2009年の民主党政権にはなれない。
結局、少なくとも2021年の総選挙で敗れて、枝野幸男代表が退いた後、路線を「中道保守」に転換し、維新の会や国民新党と共闘する「シン野党連合」を創る議論を始めないといけなかったのだ。
あまりにも遅すぎた。
ただし、野党にもまったく希望がないわけではない。
野田佳彦立憲民主党代表は、「裏金問題」など自民党の「政治とカネ」の問題に絞って攻撃し、「政治改革」の実現を訴えて、政権交代への活路を開こうとしている。
これと似たような状況がかつてあったのではないか。そう、「1993年の細川護熙政権の誕生」である。
リクルート事件などで「政治改革」の機運が高まっていた1993年6月、「政治改革関連法案」に積極的でなかった宮澤喜一首相に反発し、自民党から大量の離党者が出た(その離党者の中に、石破茂首相も含まれた)。
内閣不信任案が提出されると、離党者は賛成に回り可決された。宮澤は衆院を解散し総選挙となった。自民党は第一党となったが、過半数を大きく割り込んだ。
1993年8月9日、8党派の野党勢力が結集し、衆参で議員数35人の日本新党の細川護熙を首班とする連立政権が誕生した。
細川政権は、自民党離党者から社会党、新党まで含み、各党派間で基本政策はバラバラだったが、「非自民・非共産」で「政治改革」を実現するの一点に絞り、1994年2月に「政治改革関連法案」成立させた(その後は、「国民福祉税構想」という消費増税を唐突に打ち出して頓挫するなど、政権は迷走し、わずか11カ月で退陣した)。
この流れ、少なくとも総選挙に突入するまでの過程は、非常に現在に似ている。
「政治とカネ」ぼ問題で「政治改革」が課題となり、自民党の支持率が落ちていること。自民党から離党者は出ていない。だが、多くの裏金議員が「非公認」「比例代表への重複立候補を認めず」となり落選の危機にある。自民党が過半数を切る可能性が指摘されていることだ。
「歴史は繰り返す」というが、私は今回の総選挙の結果が、「1993年の細川政権誕生の再現」となることは、あり得ると思う。
石破氏、野田氏という与野党のリーダーが、ともに「政治改革」に動いた若手だったということも、なにか因縁を感じる。
もちろん、当時とは選挙制度が違う。93年は中選挙区制で、野党がバラバラでも戦えた。今は小選挙区比例代表並立制で、野党がバラバラなのは痛い。
それでも、自民党が議席を減らし、立民など野党が議席を増やすことは間違いない。与野党伯仲状態となることは十分考えられる。
そして、最後にちょっと、遊び心をもって、言っておきたいと思う。
自民が最大限議席を減らし、野党が最大限議席を増やして、どちらも過半数に達せず、ギリギリになる。まさに、細川政権誕生前のような状態になった時に、なにが起こるか。
「玉木雄一郎政権」
の誕生だ(笑)。
与野党がギリギリまで拮抗した時、最後に「国民民主党」がどちらに付くかで政権交代が起こるかどうかが決まる。
その時、石破首相は、首相の座を譲るとはいわないだろう。一方、野田代表(その背後にいる小沢一郎氏)は、おそらくなんの躊躇もなく、「連立政権の首班」を玉木代表に持ち掛ける。
そして、玉木氏がそれを受けて、非自民・非共産連立政権ができる。
いや、これは、あくまで遊び心を持っての、「頭の体操」ですよ。
ただ、言いたいことは、こういう政局が極限まで混乱する状況になると「一番小さいもの」が「一番大きな力」を持つことになるものだということだ。
それは、細川政権が証明していることである。
実際、総選挙に突入後、玉木代表の言動は非常に筋が通り、説得力があり、評価が高い。ひょっとすると、ひょっとするかもしれないよ(笑)。
もし、ホントに実現したら、「ほら、あの時言っただろ?」とドヤ顔できるしね(笑)。