一個人という名の「他人」の「ご意見」に流されるな
「個性が欲しい」と願う割に、他人に何か言われると「やっぱやめよ……」と諦めてしまうこと、あると思う。
「私」が言う「他人」てのは、「自分以外の他の人」という意味なんだけど。
つまり、血の繋がりとかは関係なく、「自分」以外は全員「他人」である。
だから、いくら尊敬してるパパだろうが、望んで一緒になった夫だろうが、大切な友人だろうが、全員「他人」だ。
▼パパの話
「人間100年時代」とかいう恐ろしい話が、さも当然みたいにメディアやSNSで言われてる。
そんで、「そんな時代を生き抜くためには、自分で考えて行動しないとね」みたいなことも、合わせて言われてる。
けど、そんなものは「人間100年」じゃないとしても、当たり前の話じゃないか?
――と、「私」は思う。
▼「私」について
「人は考える葦である」が、「私」という木の根っこだからだ。
人間てのは本来、ものを考えてこそ「人間」なんだ――と、「私」は思っている。
ほんで、「個性」の話に戻るんだけど。
「個性」に必要な、3つの「前提」
「個性」には、まず前提がある。
とりあえずの基本的は、たったの「3つ」だ。
「私」にはこういう「前提」が、どこかにある――というか、「あった」。
いや何も変わっちゃいないと、つい先日証明された(また改めて書く)ので、やっぱり「ある」のだ。
自分が、ただ忘れてただけで。
でも、思い返せば、いつもそうだった。
いくら尊敬してるパパ相手でも、「自分」が「違う」と思えば「いやだ」と言ってきかなかった。
おかけで「私」は、猪突猛進の頑固者と呼ばれてるけど、「確かにね!でも、変えないよ。私が自分で考えて選んだんだもん!」を貫きつづけて30年は経っている。
関東大震災も戦争も経験した、70歳年上のおじいちゃん相手でも、そうだった。
「自分」が「違う」と思えば「それは違うと思う」と言葉で伝えた。
だから、祖母とも必死で戦った。
でも「私」は、「おろかタイプ」のニンゲンだから。間違うことも、失敗も当然している。
というか、ほぼほぼ失敗ばっかである。
でも、その「失敗」て「誰が決めた基準」で考えてんのか?って真面目に考えたら――名前すら知らない「誰か」たちの集まりだ。
つまり、世間とやらである。
確かに、「世間」から見たら、「私」って相当な落ちこぼれだと思う。
学歴だって大学中退だから、つまりは高卒だし。
履歴書に書けるような職歴なんてゼロだし。
でも、「私」は幸せに生きている。
大好きなパパとおいしいものを食べに行ったり。
大好きな人と結婚して、毎日を一緒に過ごせたり。
▼夫・のりんこくんとの思い出
そして、2歳にしては生意気(笑)だけど。
でも、2歳でもちゃんと考えて「明日はこのワンピース着るの!」と言える、かわいい娘もいる。
▼しかも、2歳で他人(私)の命を救ってる
「他人」がどう思うかは分からないが、「私」は「自分」のこれまでの選択を、後悔したことはない。
その結果が「今」ここにある幸せなのだから、文句のつけようがないし。
――ところで、今日、私は昔の友人に会う。
最近、「自分」のことを改めて考えているので、懐かしくなって私から連絡した。
のりんこくんには「大丈夫?なんかの勧誘とか思われてない?」とか言われた。
……が、友人は「連絡きて、電車で泣いてしまった」と言ってくれたので、おそらく大丈夫だと思われる。
(それが「お世辞」だとしても、である!)
彼女――仮に、Sとして。
Sは、中学の同級生だ。
「私」は、彼女のことが嫌いだった。
「私」からしたら――めんどくさい「ぶりっ子」で、なのに笑顔を絶やさず、めげなかったから。
だけど、めげなかったから「私」はいつしか、Sのことが大好きになった。
「この子、自分で考えて決めて、こういうキャラ貫いてんだ」と思ったら――なんか、どうしようもなく好きになってしまった。
「普通」、他人から冷たくあしらわれたりしたら、挨拶の仕方くらいなら、「変えよう」って思うのだ。
冷たくされたくないし、できれば「嫌われるより、好かれたい」と思うじゃん?
でも、Sは毎日毎朝、懲りずに挨拶してきた。
「ゴッホちゃん↑♥️おはよぉ↑♥️」と。
これがまた、もうほんと……甘ったるくて、胸焼けしそうな声音で。
(なんかもう、文字にするより絵文字つけた方がイメージしやすそうだから、そうするね)
しかも、小首を傾げた「あざとい角度」で言うのだ。
「私」が振り向かない時は、「もぉ〜↑♥️ゴッホちゃん聞いてるぅ〜?↑♥️おはよぉ♥️」と追撃してきた。
「私」が「朝からうるさ……」と悪態をつけば、「なんでよぉ〜↑♥️ほら、おはよぉだよぉ?↑♥️」と、上目遣いしてきた。
すごいな、と思った。
思ったから、すごく簡単に大好きになってしまった。
だから、「おはよ」と、ある日の朝、「私」から挨拶をしてみた。
そしたら、
と、尺長めに喜んだ。
そんなSと、今日のお昼に会う。
何年ぶりだろう?もう思い出せない。
多分、10年くらいは経ってんじゃなかろうか?
でも「私」は、このSのことを忘れたことはない――どころか、Sのこの「おはよぉ↑♥️」エピソードは、もはや「私」の持ちネタである。
本人の知らぬところで、本人が知らぬ人たちに披露してきた。今まさに、こうして書いてるように。
聞いた人たちは、最初は笑う。
「すごいね(笑)折れないんだ(笑)」って。
でも、「私はそういう、他人に流されないポリシーがある人間が好きなんだ」という話も合わせてすると、「すごい」と言う。
その時には、もう笑ってはいない。
真面目な顔で、感心したふうに言うのだ。
「折れないって、すごい」と。
「前提」3つの解釈
最初にサラッと書いたけど、改めて。
「無礼者」と「個性がある人」は違う。
時々、「無礼者」と「個性がある人」を混同している人がいるように思う。
――が、違う。
「個性」がある人は、まず「礼を尽くす」。
「基本的なこと」をちゃんと知っていて、実践している。
この「基本的なこと」って、食べる前には「いただきます」を言うとか。
人に親切をしてもらったら、「ありがとう」と言うとか。
そういうのだ。
(つまり、知識とか、教養の話ではない)
「世間」てのは、名前も知らない「誰か」の寄せ集め。
そんで、「自分」に直接関係のない、名前すら知らない「誰か」たちの意見に、流されたりもしない。
そもそも、「世間」のご意見の99.9%くらいは、「自分」の人生を生きるには、ほぼほぼ関係なかったりする。
「一意見」として聞くことはしても、「自分」で考えて、違うと思ったら「あなたはそうなんだ。(私は違う答えだけど)」って感じで、流していい。
間違っても、「あなたが言うなら、そうするね」なんて方向に流されてはいけない。
なんでって、「他人」に言われたから……と変えられるものは、そもそも「自分」にとっても本当は「大事じゃない」もんだから。
「自分以外の他の人」には「自分」のことは分からない。
そうは言っても、我々は「人間」なので。
そして、「人」と「人」とが関わりあってこそ、生きていけるのが「この世」なので。
大昔の人間が「言葉」というのを生み出したのも、「人間て協力し合わないと、生きてくのムズいな」と思ったからじゃん?
そんで、当たり前だが、「自分」の思ってることは「自分」にしか分からないし、そんなら「他人」の考えてることなんて分かるわけがない。
テレパシーとか感覚を完全共有するとか、そういうことができなければ、分からない。
でも、だからこそ「コミニュケーションツール」として、大変に便利な「言葉」を人間は発明したわけだ。
ただ、「言葉」にしても、完全に、自分の考えを正しく伝えるのは、やっぱり難しい。
だからといって「言葉」にしないと、伝わるものも伝わらない。
初対面の人には、まず「自己紹介」からするように。
自分の考えに対しても、「これはこういうもので……」と説明しないと、相手はなんのこっちゃか分からない。
そんで、そういうことの積み重ねが、いつしか「個性」になるのだ。
さて、約束の時間は12時だけど、そろそろ支度に入ろうと思う。
久しぶりだからこそ、オシャレしたいし。
空白の期間があるからこそ、話したいことを整理しなければ。
あーあ、楽しみでやんなっちゃう!
▼「私」ってこんな人
夫に「なんかの勧誘と思われてない?」と、心配されるくらいには久しぶりだけど。
でも、多分だけど。
お互いを見つけた私たちは、10代の少女だった頃のように、また挨拶を交わすと思う。
今ははやく、あの胸焼けする「あ〜!↑♥️ゴッホちゃん↑♥️」を聞きたい。