HSPと死生観
死というものを認識し、異常に恐れ始めたのは5歳の頃だった。
その日、車で1時間半ほどのところに住む親戚が亡くなり、両親と弟と一緒に通夜へ行った。
その日は泊まり、翌日の葬儀まで出席してから帰ることになっていた。
亡くなったのは、父の従姉妹だった。
まだ当時高校生の娘さんもいた。
それは、通夜が終わり、帰る人たちは帰ってしまい、泊まる人は部屋に戻ろうとしている時だった。
なぜその場に一人で通りがかったのかは覚えていないのだが、誰もいなくなった会場で、祭壇に向かって一番前の右側の端の席に一人、ぽつんと座る中年の男性がいた。
父の義理の従兄弟、亡くなった方の旦那さんにあたる方だった。
祭壇で笑う奥さんを、ぼうっと見つめて座っていた。
その後ろ姿。
その時自分にわいた感情に、つける名前は持っていなかった。胸がつまる、切ない、そういった語彙は持っていなかったから。
でも、そういう言葉でも、表しきれなくて、大人になった今でも、形容できない。
ただ、あの時、あぁ、この世界には、こんなにもくるしくてかなしいことがあるんだ、と思った。
その日はなかなか寝付けなかった。
くるしくてかなしくて、ずっと、天井を見つめていた。
その翌日、今でも覚えているのは、泣き叫ぶ娘さんの声だ。あまりにもくるしくて、他のことは何も覚えていない。
その2年後、父方の祖母が入院した。脳梗塞だった。
何度もお見舞いに行ったが、ある時、トイレに行こうとした時だったか、病棟の廊下を一人で歩いた。
病室のにはネームプレートがずらりと並んでいる。
でも、どの部屋もしん、と静まり返っていて、廊下は恐ろしいくらい長く感じた。
元気だった祖母は、別人のようになってしまった。
他の部屋にも、同じような人がたくさん横たわっているのだろうか。
知らない世界に迷い込んだみたいだった。こんなにもこわくてかなしい場所があるんだと思った。
しばらくして、祖母は亡くなった。
高齢で父を生んでいたので、もう80歳近かった。
病院に行った時、目に飛び込んできた空っぽのベッド。
霊安室。
冷たい祖母の手。
泣く父。
こわくてかなしくて、私も泣き続けた。
泣いても祖母は戻ってこないことくらいわかっていたけれど、受け入れられなかった。
つらくてこわい今の時間をみんなで耐えたら、また前みたいに祖母が遊んでくれると思っていた。
家に帰って、その日は母が私と弟にインスタントのうどんを作ってくれた。
父と母は何も食べていなかった。
いつものうどんの味が、すごく薄く感じた。
なんだか全部、嘘の世界じゃないかと思った。
葬儀でかける曲は… お別れの言葉はお孫さんでいいですか… 文を書くときに気をつけてほしいことは…
葬儀屋さんがどんどん話を進めていく。
全部、どこか別の世界の人が自分じゃない別の人に話している気がした。
翌々日、祖母と二度と会えなくなった。
小さい箱の中に祖母が入っているなんて、考えたくもなかった。小さい箱を持って、祖父母の家まで歩いた夕暮れの道が、その時に見た9月の夕日がかなしくて、私は今でも秋の夕方が苦手だ。
ちょうどその頃、私は学校ではうまくいかないことばかりだった。
好き勝手する野蛮な同級生たちに馴染めなくて、この世にはせつなくてくるしくてどうしようもなくかなしいことがあるのに、どうしてこの人たちは何も考えずに日々こんなにも乱雑に自由奔放に生きられるのか、理解ができなかった。
夜になると、明日の学校が憂鬱であることに加え、死への恐怖とあの日の天井や夕日が浮かんできて、数時間眠れなかった。
父と母、弟と過ごす時間は安心して居られるけれど、外に出ると嫌なことばかりあるし、人間はああいうくるしくてかなしいことに向かってただ日々生きているんだ、しかも大切な人といつか離れなければならないんだと思うと、もう何も楽しいことがなくて、毎日がくるしくて、特に日曜日の夜は毎週ごっそり食欲を失くしていた。
風邪をこじらせて学校を2週間くらい休むこともよくあったし、貧血や、洗浄強迫や夜尿症などの神経症にも日常的に苦しんでいた。でも、ただ意地だけで、なんとか学校に行くことをやめなかった。
大人になり、色んな人と関わってみて、子どもの頃・学生時代が話題に上ることがあるが、私は明らかに特殊な子どもだったようだ。
まず第一に、幼少期のことをこれほど詳細に覚えている人がほぼ居ない。
居ても、「特に何も考えずに生きてたと思う」「自我的なものがまだなかった気がする」「毎日ゲームばっかりしていた」のように、なんらかの深い思考に関わる記憶はほぼないようだ。
はっきり思い出話として出てくる話でも、家族から繰り返し聞かされていて覚えているだけだったり、単なる出来事の記憶だったりする。
ある程度仲の深まった友人には、「私、小学生の頃学校全然楽しくなかったんだよね。特に低学年の頃」などと話をしたことがあるが、皆口を揃えて「低学年の記憶とかよくあるね?」と言う。
今冷静に考えると、5クラスあった自分の小学校2年生の教室のどこを探しても、人の世の切なさや無常観に打ちひしがれていた生徒など居なかったはずだ(もちろん探せば、どこかの小学校には居ただろうし、これを共感しながら読んでくださっている方も同じような小学2年生だったかもしれない)。
結局、高学年、中学生… となってゆくにつれ、徐々に体調も精神的なバランスも、少しずつ、社会生活を営めるくらいには安定していった。
私にとって「大人になる」「歳をとって成長していく」とは、楽しいことを見つけたり、自分をなぐさめる知識や言葉を知ったり、とにかく「自分を守る術」を身につけることと同義に近かった。
力をつけるというよりは、防御のため。
無防備だった幼い頃の自分は、この世に存在するあらゆるネガティブなものの渦に、常に飲み込まれそうになっていた気がする。
色んなことを知り、語彙が増え、自分の得体の知れない感情に、理由や名前がついて、周囲の友人もだんだんと最低限の善悪の区別をつけてくれるようになり(例えば、何も悪いことを言っていないのにいきなり機嫌を悪くされるなどということはなくなっていった)、
そして、10年ほど前に「HSP」というものを知り、私は私の思考を受け入れられるようになった。
今ももちろん死はこわいし、あの時のイメージは目に焼き付いてしまっている。
でも、この世はつらいことやかなしいことばかりだと思っていたあの頃と違って、この世にはたくさんの美しいものや、ワクワクすることや、あたたかいものや、そういうものもたしかにあると感じる。
むしろそういうものの方が、何倍も多いと信じたい。
ここからは余談だが、教育に携わるものとして、この幼少期の「死への恐れ」の気持ちを、簡単に子どもたちに話したことがある。
「そんなこと考える小学生とかすごい」という反応に混じって、「自分もよく考えます」という声が、もちろん多くはなかったが、確かに幾つかあった。
もちろん環境によるので一概には言えないが、HSPは、幼少期ほど生きづらいのではないかと思う。自分のことをうまく理解したり表現したりする術を、まだ持たないからだ。
心が比較的安定してからも、私は学校が好きなタイプの人間ではなかった。
ただ、そういう少数派で、うまくいかないことが多かった人間こその、子どもたちへの関わり方があるのではないかと日々思う。
私にとっては、家族が最大の理解者であってくれた。
しかし、そうでない子も多いはずだ。
家族だからといって同じHSPとは限らないし、お互いHSPであっても、うまく心のケアをし合えるとは限らない。
生きづらさを感じているHSCたちの、心の拠り所になれたら良いなと願ってやまない。