まだ携帯電話もなく、ポケベルもPHSもなかった時代。待ち合わせで誰かが遅刻すれば会えないことなど日常茶飯事で、駅の伝言板にチョークでメッセージを残していた時代。駅員さんがカチカチカチと切符をリズミカルに切っていたあの頃は、相手に何かを伝えるための手段がすべてアナログだった。
時を経て、まさかここまで文字を書かなくなる時代がくるとは思っていなかった。今や片手で文字を打ち込み送信すれば相手に届くのだから、本当に驚く。
アナログな時代を知っている人間ならば一度は言いたくなるのは、「愛を伝えるのにデジタルでは何かが圧倒的に足りない」ということ。
手書きの文字にはその人のひととなりがにじみ出る。大きい文字、小さい文字、濃い筆圧、エレガントな筆跡。手紙をもらって嬉しいのは、それらを体全体で味わえるから。それが恋文ならばなおさら。
財布の中に入れて大切に肌身離さずずっと持っていたもの。色あせた愛にあふれた世界に1枚だけの名刺。冒頭から情緒的でロマンティック。
なんと書いてあったのだろう。無粋ながら妄想する。便せんではなく、メモ帳でもなくどうして名刺の裏なんだろう。仕事先や出張先の宿で書いたのだろうか。手持ちの紙がなくてとっさに名刺の裏に書いたのだろうか。
妄想はとめどもなく広がるがそんなことが重要なのではなく、この作品はいろんなストーリーを考える余白があり、余韻がある。読み手がおふたりの愛を妄想し、勝手にキュンとなる。
名刺が色あせていた理由が書いてある。70年以上母の心を温め続けたということは、若い頃にもらった名刺ということになる。あ、もしかしたらお付き合いする前に愛の告白かも……また妄想は膨らむ。
最後に、作者は私の人生までも幸せで満たしてくれたと書いた。ご両親の愛を一身に受け育ち、また、ご両親がお互いに愛し合っていることを身近で見ていたという、この上ない幸せを語っている。
そして結びに「感謝」のひとこと。この感謝という言葉からは、幾重にも重なった家族の絆がにじみ出ている。
アナログの愛の言葉を伝えてみたくなる名作。
このブログでは、「あの人との、ひとり言」コンクールの入賞作品の中からランダムにチョイスした名作たちを紹介して参ります。作者の心情に寄り添ったり、自分もこういうことがあったなと思い出を探してみたり、コンクール応募のきっかけにもなれば幸いです。
ステキな作品に、どうぞ出会ってください。