なんでもいいからやり始めろってことなのだ
ものすご急に寒くなってきて、身体がぎゅっと締まるような感覚があった。そんな中、心のほうもきっと縮こまっていたんだと思う。わたしは世の中の色々になんだか腹を立てたりした。81歳の父ちゃんがちょっと調子を崩したりして心配していたから、そういう心の動きも影響したんかな。そうするとなんだか風邪から移行して出てきた喘息もなかなか治っていかない。心身相関という言葉をむかし高校の何かの授業で習ったが、それは本当やなーと思いながら過ごしていた。
今日は息抜きnoteだと決めているから、あんまし長く書かずに書くことを決めず、思いのままを綴って終わりにするのだ。目の前の猫のように、人の心を邪魔しない存在がとてもありがたい。ちょっと構ってほしくてすりすりしても、すぐにそれを忘れたように去っていき、後には何も残らない。交流の後はただほんのり、ほっと温かい気持ちが残る。世の猫好きさんが猫を褒め称える理由が、わたしには分かる気がする。
日頃は難しくない仕事を前にして、手がつかずに苦しむ日々を過ごしていた。昨日の夜までその気分が続いたが、今朝になると子どもの弁当作りの合間にたちまちパソコンを叩いて書き終わってしまった。今までなんだったんだ。ホッとする一方で、自分の力のムラというか、コンスタントにやっていけないのはなぜなんだろう、ということに思いが及んでいく。
結局はなんでもいいからやり始めろ、ってことなのだ。何も考えなくていい作業からルーティーンでこなしていき、最後に個別の物事を捉えて放出していく。わたしで言えばまず記事の毎月の決まりごとを押さえて新しい書類を作る。撮影した写真の明るさを微調整したりする。パソコンのデスクトップにフォルダを作る。そういった簡単なことから手をつければいい。記事については何も創作しなくていい。右にある対象の要点ををそのまま、左に移せばいいだけ。わたしは何も加える必要はない。そのままでいい。…ただそれだけのことが、自分の心の問題で果てしなく難しいときがある。
若い頃から記者をやっていればきっと楽だったのかなとか思うこともある。わたしは新聞の見出しをつける記者だったから、そのころ書いていたのは10文字とかなのだ。今ごろになってライターになったのは、時代だと思う。企業が外注する仕事が増えた今だから、ひょんなことから書く仕事をもらえるようになった。時代が良かったのか、悪かったのかは分からない。たまたま自分は仕事が落ちてくる狭間にいあわせたんだろうなーと思う。
平坦な心で捉えると、自分がライターになった理由ってそれなのだ。最初に言ったみたいに、秋だし寒いし朝だからか今のわたしは真顔でこれを書いていた。そのことに鏡に映っている自分を見て気がついた。
あ、息子を送る時間がきた。今日は息子の迎えが湯平温泉だから、夕方の迎えついでには銀の湯という共同浴場に入りたい。身体を温めれば、心も温まるだろうか。喘息のほうはどうやら治ったみたいだ。