見出し画像

読まれないnoteの書きかたについて。

いつもは夜9時を過ぎるともう眠くなって、畳にでも床にでもどこでもバタンと眠りたい気分になる。でも今日はなんか元気なのでnoteが書ける感じがしたんですよ。ちょっとビールひと缶開けようかなぁ。…と思って冷蔵庫を開けたら500mlの缶しかなかった。350mlならよかったのに500なんて。そんなにたくさん飲める気がしない。だからビールは諦め、日本酒にしようかと4合瓶を目線まで上げて残りを確認した。ああ、これいったい何mlだろう。お盆に義理の兄ちゃんたちがくれた「豊潤」ていう美味しいお酒やったんやけど、これって多分小さじ1杯もないのではないか。まだおちょこ1杯くらいはあると思ってたのに…。これでは飲んでも飲まんでも一緒やー
ということでもう今朝沸かしたお湯を飲むことにする。わたしのnoteっていつもこんな風に行き当たりばったり。なんの役にもたたないんですよ。なんかこの前、自分のnoteのページに「もっと読まれるには」みたいな項目が出てきた。それはnote公式かなんかの記事でそれがずーっと出てくるのでじわじわ気になってきてつい読んでしまったんですよ。そこに書いてあったことは…忘れたけど、なんかそこから派生して、なんか有名っぽいライターさんか誰かが書いた、選ばれるnoteとはみたいな記事に飛んだんだっけ。
そこに書いてあったのは、なんか読んで有益なことを書いてある記事とかじゃないと人は読みませんよ、選びませんよみたいなことだったのだ。そこでわたしは自分のことをいろいろ振り返ってみた。noteのことも振り返った。果たしてそこに何か有益なことがあったことがあるだろうか?いや、ない。笑。こりゃーどこにも何にも選ばれる由もない。
とはいっても、人が読んでくれるかどうかを気にしていたら、なんも書けないのがわたしの性分じゃないかと思う。いや、ていうか、全然気にしないといったらそれはウソで、やっぱちょっとぐらいは読んでくれる人がいて「読んだよー」とか言ってもらえることは心底うれしいのが本当だ。でも、読んだ人の中にはわたしの書きかたが性に合わない人もいるだろう。例えば国語に精通している人とかは、文末に「笑」ってつくだけでもうでっかくペケを描きたくなるのではないか。あんまり癖のない文章のほうが誰の心も邪魔しないとも思う。それでもわたしには自分の気持ちに沿って自分の描く形で文章を書く場所が必要なのだ。だから「笑」って書くのをやめない。今はやめない。
「今は」っていうのには、一瞬先の自分の気持ちとか自分もわからないので、もしかしたらやめる時が来るかもしれないっていう意味が入っている。わたしにはむかし自分が書いた文章を読んで、あらーこれはダメだ読んでられないわと思うことが多々あるんやけど、でもまたしばらく経ってそれを読んだら、あら?あの時はダメと思ったけど今日はこの文章好きやわとなることが結構ある。その逆も然り。
かといって未来の自分のために書いてるわけではない。今の自分にとって必要だからこうやって書いてる。だってな、これってため池がたまりすぎた水を放流するのと一緒。わたしにとって放流はなんか書くこと。人によってはそれが野球かもしれんしランニングかも、散歩かもしれない。人それぞれに与えられた放流方法?があるんやと思うんよな。

きっと人にはそれぞれ自分に合った放流のやり方がある。ため池がでかすぎて放流の必要がない人もいるかもしれない。ちょろちょろ流す人も、ドカンと流す人も、蒸発させる人だっているだろう。釣りが精神の放流って人もいるだろうし、ガンプラですよって人も、猫を撫でているときって人もいるかも。人生いろいろ放流だっていろいろ、あれ、わたしは何が言いたくてこんなことを書いてるか忘れかけてたけど、そう、書きたかったことがあったんだ。
役に立たない金にならないことを右往左往しながらやるって尊い。謎の放流方法しかできなくて、ノウハウも知らず、自分のまんまでいる人って尊い。

「そのまんま」っていう価値。原石すぎて換算できないことが、みんなにたくさん埋まってるってことがあるんかもしれん。ということで、今日はもう寝る。たぶん徳川埋蔵金の夢を見るんやないかなー。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。いただいたサポートを糧に、学んだり動いたりして、よりよいものを書いていきたいと思います。これまでサポートしてくださった方にも、この場を借りてお礼申し上げたいです。本当にありがとうございました!