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相互理解を打ち砕くラスト「悪は存在しない」映画感想文

 映画を観終わってこの記事を今から読もうとしている方の多くは、この映画のラストで呆気に取られて「どういうこと!?」となり、とりあえず他の人の感想を探そうとなった方が多いのではないでしょうか。
 かくいう私もそうなので安心して下さい。
 どういうこと…!?となったので、自分の混乱を整理する為にこれを書いています。

 今回前置きが長いので、感想だけサクッと読みたい方は目次からどうぞ↓


ラジオで話題になっていた本作(前置き)

 映画の感想だけ読みたい方はこの段落ごと飛ばしてもらって構わないのですが、私の2024年の目標は、月に一度は映画館に行ってnoteに感想を書くことです。
 映画をよく観る方にとっては月に一度!?少なっ!と思われるかもしれないのですが、私は可能な限り家に引きこもっていたい性格なので、これでもだいぶ頑張っております。
 1月はカラオケ行こ!、2月はボーはおそれている、3月はペナルティループ、4月は成功したオタクと、なんとか出かけてnoteも書いているなんてね、もうこれだけでじゅうぶんすごい。

 5月はアニメ映画デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション略してデデデデの後編が月末に上映されるので、実は4月に前編も見ておりなんと月に2回も映画館に足を運んでいることになるのでやばい、健康で文化的な生活を送りすぎて素晴らしい。
 とそんな感じで、5月は月末にデデデデの前編後編の感想をまとめて書こうかな〜と考えていました。

 この映画のタイトルが耳に入ってきたのは、そんな呑気に構えていた5月初旬の頃。
 毎週楽しみに聴いているパンサー向井さんのラジオ #むかいの喋り方、そして続けて佐久間宣之さんのラジオ、オールナイトニッポン0でもこの映画のことを話していたのです。
 この二人が面白かったと言っているなら観てみようかなという気持ちになり、上映館がだいぶ限られているようだったので調べてみたら、愛知県だとナゴヤキネマ・ノイという映画館で観れるらしい。場所は今池。
 今池に映画館なんてあったっけ?と思ったらありました。
 私は生まれ育った名古屋のことも、まだ何にも知らないのかもしれない。
 チケットを予約し、行き方を調べて何とか辿り着いたのがこちら。

ここに映画館が…???
あるー!!
ポスターや新聞記事も貼ってある


ここからネタバレ有り感想文


 気になるのはポスターに書かれた「これは、君の話になる」というキャッチコピー。
 公式サイトの内容から、自然豊かな土地にグランピング施設が出来ることで地域の住民たちと対立したり何やかんやする話だと大まかに認識していたので、どうしてそれが見る側、つまり私の話になるのかわからなかった。
 あなたが当事者だったらどっち側につくか考えてね、みたいなことなのかな〜とか予想していました。
 あのラストを目撃するまでは。

 最初にひたすら続くのは、森を見上げる誰かの視点。
 これは娘の花ちゃんの視点だと考えていましたが、あのラストを鑑みると

 「人間が自然を見上げている」のではなく
 「自然が人間を見下ろしている」視点
 だったのかなと思いました。

 途中まではグランピング施設計画に伴う地元の人々との議論、そして計画を進める芸能事務所側の二人の苦悩を描写することで、みんな大変だよね、それぞれ事情があるんだよ、悪は存在しないんだよ、みたいな優しい意味での「悪は存在しない」というタイトルなのかな、と思っていたのですが……。

 自然の中で暮らしてきた地元の住民と、そこを開発しようと東京からやってきた人々。
 普通だと地元住民が善、都会の人間を悪として過激な対立構造にしがちなところを、この作品はそうしない。
 感情的な人も一部はいるけれど、地元住民たちはほとんど冷静に対応し、口にする言葉には確かな知識があり、計画の懸念点を理性的に指摘出来る。
 一方計画する側も無理があることを理解しており、白紙に戻せないかとさえ口にする。
 そもそもの原因はこの杜撰な計画をゴリ押ししようとしているコンサル担当者と芸能事務所の社長だが、きっと彼らにもそうしなくてはいけない事情があるのだろう。

 また主人公の巧さんも完全な善、作中における必ず正しい存在というわけでもない。
 とにかく娘の花ちゃんをほったらかしにしすぎ。
 娘を迎えに行くのは忘れるし、ぬいぐるみを使って明らかにお父さんの気を引こうとしているのに、遊ぼうとはしないし。
 二人で歩くシーンはあるけれど、手を繋いではいないから、花ちゃんは夢の中でだけお父さんと手を繋ぐ。
 ポスターにも描かれている鳥の羽根を拾うことに夢中になったのも、その羽根がチェンバロという楽器に使われると聞いたからじゃないだろうか。花ちゃんのもういないお母さんが楽器を弾く人だったのは、家にあるピアノから推測出来るので。
 花ちゃんはずっと寂しいのだ。
 同じ年頃の子どもたちとは遊ばず、父親が迎えに来るのを忘れてしまうから、一人で先に帰ってしまうし、もっと羽根を拾おうと一人で鳥を追いかけてしまう。
 彼女にあまり一人で遠くに行っちゃダメだよと注意してくれるのは、父親ではなく他人の区長さんだけ。

 巧さんが説明会で言っていたバランスが大事という言葉。
 私は巧さん自身は本当にバランスが取れていたのかなあと疑問だった。自然と文明のバランスは取れていたのかもしれない。
 けれど、仕事と家庭のバランスは取れていたのだろうか。

 説明会の後、二人の絵を描いている辺りまで、巧さんはグランピング施設の計画にわりと協力的に見えました。それこそ娘の花ちゃんの相手をしなくなるほどに。
 再び訪れた高橋さんと黛さんに土地の水で打ったうどんを食べさせ、水汲みに参加させた巧さんは、都会から来た彼らがちゃんとバランスが取れるのかどうか、見定めていたのかなと思います。
 しかし無理な計画を任されて職場に嫌気が差した高橋さんもまた、説明会で指摘されていた通り、都会のストレスを田舎に捨てに来ただけに見える。
 黛さんとの車中での会話、アプリでマッチングした相手と結婚して仕事を辞めて移住すると言い出したのも、相手に断られる可能性は最初から考慮してないのか…?と心配になってしまう。
 ヤケクソになってたから、大きなことを言ってみせただけかもしれないけど。
 高橋さんはやったことがなかった薪割りに感動はするけれど、散々論点にされてきた水を使ったうどんの味には感想がなく、通り道を塞がれた鹿がどこへ行くのかまでは深く考えていない様子。
 それを聞いた巧さんは車中で煙草を吸い始める。ここでこの人にはバランスが取れそうにないと、見切りをつけてしまったのかな。

 そして終盤の花ちゃんの失踪で、ストーリーが急激に動き出す。
 子鹿を連れた手負いの鹿のそばで、じっとして動かない花ちゃん。
 やがて帽子を取って自ら歩いて行き、それを止めようとした(?)高橋さんの首を締める巧さん。
 巧さんの行動が唐突過ぎて、何が起きたのかまるで分からなかった。
 えっ、ど、どうして???ってなった。

 説明会も車中のシーンも、対話を通じての相互理解を描いているのだと思いました。だからこそ、会話を放棄し、突如暴力的になったラストの巧さんの行動を理解するのが難しい。

 高橋さんに見切りをつけたから、もう生かしてはおけないと思った? 
 花ちゃんと鹿に高橋さんが近づくのを、どうしても止めないといけなかった?
 ど、どういうことなの???

 となってしまったので、ここからは私の推測をいくつか書きます。

 そもそもあのシーンは、本当に花ちゃんから鹿に近寄ったのだろうか?
 森の木の枝に付着していた血は黛さんではなく花ちゃんの血で、最後に鼻血を拭ってあげていたのが現実だとすると、もう見つけた時には立っておらず、倒れていたんじゃないだろうか。
 花ちゃんが自分から鹿に近寄って行ったのは、彼女が自ら死に向かって行った(結果としてそうなった)ということを、仄めかした描写だったのではないだろうか。

 通常、野生の鹿は人間を襲わない。
 子連れで手負いでもなければ……。
 妻を亡くしている巧さんは元々手負いの状態で、その上で花ちゃんまで失おうとしていた。
 だから巧さんは人間側から自然側へバランスが傾き、穏やかだったはずの生活を崩した人間(高橋)を襲ったのかな。
 黛さんはともかく、高橋さんとの共存は難しそうだと、もう見切りをつけてしまっていたから。
 でもそれだと、巧さんが完全に自分勝手な悪になってしまう。そもそも花ちゃんを一人にさせていたのは巧さんなので。
 高橋さんが花ちゃんを助けようと動き出したので、鹿をこれ以上刺激しないように、花ちゃんがこれ以上傷つけられないように、高橋さんの動きを止める必要があった、くらいが妥当なんだろうか。

 もしくは、花ちゃんが帽子を取って、鹿に歩み寄って行ったのが現実だとして。
 この作品においての鹿は単なる野生動物以上に、自然そのもののような、神の使いとしての意味があったのかなとも感じました。
 自分たちの居場所を奪うのなら、お前の娘を貰っていく、そんな警告だったのだろうか。
 それを感じ取ったから、高橋さんを襲い、先に「捧げる」ことで娘を取り戻したのだろうか。
 でも自分で書いておきながら、これも強引な考えのような気がするし……。


 ラストの森が「こちら」を見下ろしている視点は、確かにこれが私たちの話である、と認識出来るものでした。

 悪は存在しない。人間それぞれに事情があるから。
 悪は存在しない。自然には悪意なんてないから。
 その上で、人の手ではコントロール出来ないものは存在し、それは常に人間の行動を見つめている。
 バランスを崩せば突如猛威をふるい、あるいは日々積み重ねてきた齟齬が、最後には大事な何かを奪っていく。
 そんな警告としての作品だったのかなと思います。


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