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巨大生物の夏

 日の盛りは過ぎたが16時半の屋外はまだ暑い。夏期講習で子どもたち相手におしゃべりをし続けた後、数駅離れた電器屋街まで徒歩で来たので汗ばんでいます。
 今日の授業でも、おしゃべりの最中にフワッとしてしまった。
 生徒たちにはたぶんばれていませんが、講義の途中にふと、自分がウソをついているような気がしてしまい、そうすると、口から出ることばが自分から剥離して足元が傾く感覚が起こります。核分裂に続く細胞質分裂では、動物細胞の場合は細胞膜がくびれますが、植物細胞の場合は細胞板が形成されます、本当に? という声が頭の後ろのほうできこえるともうダメで、わたしは今や、子どもたちの前で架空を繰り広げる人。ニューロンが刺激を受けると、その部位の膜の透過性が変化して、Na+が急激に膜内に流入し、これによって生じる電位の変化を活動電位といって、その発生こそが興奮なんですね。子どもたちはウンウンと頷いて聴いている。背中から汗が吹き出し、間違ってないよね、去年も喋った内容だし、教科書にも書いてあるよね、いや、本当に書いてあるかしら、と上の空になる一方でますますことばは意思から剥離し、もうすっかりわたしは、ウソを取り繕わねばならぬ人の気持ちでひとり勝手にしどろもどろ。
 夏期講習では、このフワッが特によく起こるのは、担当授業が多いせいか、それとも暑さのせいでしょうか。まじめな女子生徒が、わたしのウソをノートに取っています。ウソに蛍光ペンでアンダーラインを引いています。ペンケースからこぼれる色とりどりのネオンカラー。わたしも子どもの頃、こんな蛍光マーカーのセットを持っていた。イエロー、ピンク、ブルー、ミントグリーンのそのセットが洒落て思えて文具店で母に買ってもらったのでしたが、セットのうちの一本をどこかに落として失ってから、他の色も使わなくなってしまいました。

 電器屋街もまた、色彩であふれています。蛍光イエローで店名が書きつけられたピンクの看板。グリーンの髪の娘の絵に赤い文字の吹き出し。空色の法被が配るキャンペーンの団扇も蛍光イエロー。猥雑が熱気に揺れるのを、ファーストフード店の窓際に陣取って眺めていました。講義と移動で渇いた喉を炭酸飲料で潤していると、待ち合わせていたペグレスが階段から姿を現しました。涼しげな色のシャツを皮膚に貼りつかせながら、彼もまた炭酸飲料を手にしています。冷房の直撃する席で、わたしたちはふたりながら冷たい飲料を摂取しました。
「ちょっと涼んで、飲み終わったら行こうか」
 今日は、電器屋街でPCを買うのに、ペグレスが付き添ってくれる約束なのです。いつまで経っても学習塾カマボコのアルバイト講師でしがない生活ではありますが、夏期講習のギャラでやっとPCが新調できることを、わたしは喜んでいました。しかし電化製品を買うときは、女ひとりで行くよりも、男性を伴っていたほうが舐められずに済むように思います。
「今日買ってしまいますか?」
「今のOSのサポートがじきに切れるし、成る丈早く買い換えたいんだ。そもそもメモリが4GBしかなくて、使い物にならない」
「最低8、できれば16積んでてほしいですよね」
「前回はケチってしくじった。二学期からのプリントも作らなきゃだし、今度は多少高くついても、そこそこのスペックのがいいな」
「結果的にその方が長く使えますよ。ところで、巨大生物のことは知っていました?」
 ペグレスが来る前に、スマートフォンで新型PCのことを少し調べておこうとして、そういえばそんなネットニュースが目に入ったことをわたしは思い出しました。
「さっきにネットでちらりと見た、あれのことかな。どこかに漂着したのだっけ、巨大生物が」
 そういえば、塾で生徒たちが「マジかよ」とか「授業終わったら見に行こうぜ」とか話していたのも、その巨大生物のことだったかもしれません。
「そう、海に棲む巨大生物がこの街の河口に流れ着いて、今もそこにいるらしいです。ここに来る途中、交差点の街頭スクリーンでもニュースを見ましたよ」
「どういうわけで河口に?」
「まだ何も分からないようです。ずいぶん見物人も集まってるみたいですが」
「へえ、野次馬だね。わたしたちは、見に行かないよね」
 わたしは底に残る炭酸飲料を吸い上げました。
「近くにいるなら見物に行ってもいいけれど、河口かあ。遠いよね」
「それに暑いですからね」
「そう。せっかく電器屋街まで来てるのに」
「まずは量販店で希望のスペックのマシンをいくつかピックアップしましょうか」
「うん、それでだいたいの価格帯を見て。ねえ、ここの最寄り駅からは、海までの電車なんて出ていないよね」
「その後にメーカーの直営店を回ってもいいですし。海までは、あ、電器屋街の駅から海浜線が出てますよ」
 大人になってからこの街に移住したわたしと違い、ペグレスはこの街で育ったので街の交通に詳しいのでした。
「海浜線が出てるんだ。でももう電器屋街に来てしまってるし、今日の目的はPCを買って帰ることだし」
「そうですよね。用事を済ませてしまいましょう」
「河口の駅までは何駅ほどだろう。遠いよね」
「いや、そう遠くはないです、半時間もかからないんじゃないかな」
「そんなものなんだ。メーカーのサポートは、直営店で買うほうが手厚い?」
「6駅ですって、乗換案内によると。サポートは、どこで買っても一緒じゃないかなあ」
「6駅か。電器屋街の駅って此処からすぐだったよね」

 わたしたちはどちらからともなく手を取り合って駆け出し、炭酸飲料の紙コップをファーストフード屋の回収ボックスに投げ込んで店を出ると、入るはずだった電器量販店の大きな入口の前を素通りして、電器屋街の駅の階段を駆け下りて海浜線のホームに立っていました。都市部を走る本線のホームはいつも混んでいますが、海浜線のホームはほとんど人がいません。四両編成の小さな電車に乗り込み、わたしたちは笑い出しました。汗が粒になって光る白いこめかみを見上げました。子どもの頃にこんな笑い方をしながら友だちと遊んだことがあった気がしました。地下から乗り込んだ電車が、いつのまにか地上に顔を出すと、猥雑に店が建て込んだ電器屋街の雑踏から一転、高いグレーの外壁が延々と続く工場や何に使われるのか分からない茫洋とした倉庫が間隔を空けて建つ風景が広がり、ひと気のない終着駅でわれわれは電車を降りました。無人の改札を抜けたところは小さな路地で閑散としています。路地の奥に堤防のようなものが見え、そちらへ歩き出しました。ひと組の男女とすれ違いました。
「あの人たちも巨大生物帰りなのかな」
 わたしが呟きました。
「こんな閑散たる駅の近辺にいる人は、たいてい巨大生物見物でしょう」
 ペグレスが決めつけました。
「どこらあたりにいるんでしょうね。今の男女に尋ねるべきだった」
 夏草に覆われた階段を上り、わたしたちは堤防の上に出ました。海浜線の終着駅まで来ればすぐに河口に出て海が見えるものと思っていましたが、堤防の向こうに横たわっているのは夏草に覆われた静かな川で、河口はまだ見えません。野次馬が大勢騒いでいるかと思いきや、買い物袋を提げた地元の人の姿がいくらか見えるほかはすべてこともなき風情で、とてもこの川をくだったところに巨大生物なんぞがいるようには思えません。

「ともかく河口に向かって歩きましょうか。河口に架かる大橋まで行けば、報道のヘリや野次馬が集まっているでしょう」

 わたしたちは、陽炎の向こうに大きく聳えて見える河口大橋の影を目指して、堤防に沿って歩き出しました。
 この後には特に予定もありませんから、呑気なものです。さっきまで電子音の溢れる電気屋街にいたというのに、衝動的に海まで巨大生物を見物にくるなんて、アイスキャンデー舐めながら思いつくままに自転車で隣町まで走る、子どもたちの夏休みのようです。尤も学習塾カマボコの子どもたちは毎日授業で忙しそうですが。
 しばらく歩くと昼の熱気は引き、ジョギングや犬の散歩に興じる地元の人といくらかすれ違いました。しかし、河口大橋は、ずいぶん大きく見えるのに、歩いても歩いても近くなりません。近づいたと思えばまたも遠のいてしまい、蜃気楼のようです。行く手には大きな夕陽がゆっくり沈みつつあり、歩いてきた上流のほうから薄闇に覆われてゆきます。途中、犬の集いと猫の集いを見ました。薄紫に覆われ始めた土手の傍らでもぞもぞと蠢いていました。人の集いも見ました。おっ、人がいる、巨大生物の野次馬かな、と思いきや、集っていたはずの人々は、近づくとやはり蜃気楼のように霧散してしまうのでした。川幅はずいぶん広くなりもうほぼ海と区別がつかないほどなのに、いつまでも海になりません。この街に育ったペグレスも、海浜線終着駅から海に出るまでこれほど歩くことを知らなかったようでした。もう海かなあ、とわたしが言うたび、「まだ川ですよ」とペグレスが言います。
「海になるところには、河川管理境界の表示があるんですよ」
「ある地点から淡水がすっかり海水に変わるわけではないのに、ある地点で管理者が変わるのは何か面白いね」
「こんなに広いのにまだ川と呼ぶのも面白いですね」
「あの街のあの細い川がこんなに広く育つのもふしぎ」
 わたしの育った街は、この街のずっと上流の、山に囲まれた小さな街でした。そこではこの川はまだ、街の中を流れるかわいい流れに過ぎません。暑い季節には子どもたちは、橋でなく水の中を渡るほど小さな川でした。それが下流になると、向こう岸が見えないほど大きな流れになるとは。子どもの頃、「この川はずっと下流へゆくと別の街に出て大きな海になるのよ」と何度聞かされても上手くイメージできませんでしたが、今でもこの川とあの川がつながっていることを上手く理解できていません。

 そういえば、子どもの頃、わたしの中で、まだ見ぬこの川の河口は落としものたちの住まいでした。夏に川辺で遊んでいて、幼いわたしはうっかりサンダルを落としてしまった。珍しく少し増水していた川は、あっというまに西瓜の模様のサンダルを流してしまいました。嘆くわたしに替えの靴を履かせながら母は、
「あのゴム草履は今ごろは川を旅して、もうすぐ海へ流れ着くよ、この川は海になるんだから」
 と慰めました。今思えば、海に流れ着いたとてそこへ拾いにゆくわけでもないのですから何の慰めにもなっていないのですが、そう言われると、あのサンダルが広い海で悠々と暮らしているように思えて心がホッとしたのでした。とはいえしばらくの間、わたしは、溝恐怖症に陥りました。家のお風呂場や流し台、水が流れてゆくところが怖い、道路の端の排水溝、怖くて跨げない。水が流れるところを見ると、大事なものを流してしまいそうで。そのたびに、その水が川へ流れて海へ出るのを思い浮かべ、海に行けば落としものに会えるんだとおまじないのように想像しつづけたものですから、それからべつに水に落としたわけでない失くしものも、なんとなく、海まで行けば会えるような想像が出来上がってしまったのでした。落とした蛍光マーカー、ランドセルにつけていていつしかちぎれたキーホルダー、どこかに忘れたぬいぐるみ、放課後の教室から無くなった詩集、脱走したきり見つからなかったハムスター、ひと冬だけ学校の近くで見かけたのらねこ。それらが、河口で寄り集まって第二の人生を送っているような想像図。
 しかし、実際に目の前に広がる川は、沈みかけの夕陽を受けて薄橙に光りながら茫漠と広く、こんなにも広ければ、蛍光マーカーもキーホルダーも、ハムスターものらねこも、此処に流れ着いたとてとうてい見つけ出すことはできないでしょう。

 駅から一時間ほども歩いたでしょうか。
 やっと河口大橋の橋脚のふもとまで辿り着きました。わたしたちは子どものように小躍りしましたが、遠くからは大きく見えた大橋は、近づくとそれほどでもないように思えました。橋の下を抜けると、途端に人びとの影が現れました。今度は蜃気楼ではなく、わいわいと騒ぐ声が堤防沿いに集まっています。
「やっぱり野次馬たちが来てますね」
「いるねいるね、見に行こう」
 わたしたちも人だかりに近づきました。人びとは、堤防から身を乗り出して河口の湾を眺め、遠くを指さしてはあれこれ言い合っています。どうも、巨大生物の姿はその大部分が水面下に潜んでおりはっきり見えぬようです。双眼鏡や望遠のついたカメラを持参している人もいます。わたしたちは野次馬の後ろから背伸びして、双眼鏡やカメラの向く先を見ましたが、水面の一部がかすかに色づいて揺れて見えるのみで、巨大生物の全貌は分かりません。夏の行楽がてら立ち寄ったらしき親子連れもいます。堤防から乗り出しすぎた子どもの体を、おっとっと、と父親が慌てて押さえました。ひときわ立派なカメラを持って腕章を巻いた人たちは報道陣でしょう。
「撮れますか」
 釣りをしている人に「釣れますか」と尋ねるような按配で、カメラを担いだ人にペグレスが声をかけました。
「いやあ、ここからでは遠くて駄目ですね。橋の上からならもっとはっきり見えるかもしれませんが。それにしたってずっと潜ったままだし、水面に映る影しか撮れませんね」
「水の上には出てこないんでしょうか」
「今日はもう出てこないんじゃないですかね」
「でもぼんやり見える部分だけでもだいぶ大きそうですね。全長は5メートルほどでしょうか」
「なんの、実際その倍はあるという話ですよ」
「なんでこんなところまで来たんでしょうね、海の真ん中にいるはずの生き物が」
「さあ。餌でも追って迷い込んだのかなあ」
 堤防の脇には次々と車が止まり、人がどやどやと降りてきます。面白いことに、新たにやってくる野次馬たちは一様に、
「野次馬がいっぱいいるなあ」
「野次馬を見にきたぜ」
 と言います。しかし彼らも野次馬なのでした。わたしたちも同じようなことを言っていましたから苦笑しました。
「あれだあれだ」
「あの影みたいなところかあ」
「でもよくは見えねえな、もっと明るい時間なら見えたのかな」
 彼らは一通り騒ぐとまたどやどやと車に戻っていくのでした。少年野球の練習帰りか、お揃いのユニフォームに身を包んだ男の子たちの集団が自転車でやってきました。
「野次馬ばっかりじゃん」
「ぼんやりとしか見えないなあ、誰か近くまで泳いで様子見てこいよ」
「バカ言うなよ」
「全然動かないや、帰ろうぜ」
 少年たちもまだ自転車に飛び乗って去ってゆくのでした。諦めきれず、ずっと見ていれば水面に姿全体を現わしてくれるのではないかと、わたしたちはしばらく海を眺めていましたが、いつのまにか海は完全に闇に沈み、うっすら見えていた影も周囲の闇と同化して分からなくなりました。報道陣が諦めて帰ってしまうと、気がつけばあたりは真っ暗で誰もいません。ついさっきまであんなに声たちがいたのに。
 野次馬たちは皆、車や自転車で此処へ来て車や自転車で去っていったのでしょう。海浜線の駅から巨大生物見物のために一時間も歩いてきたのはわたしたちだけだったようです。わたしたちだけが夜の堤防に取り残されたようになりました。夜の港湾は、ほんとうに無人です。周囲に民家はなく、いくつかあった店は閉ざされ、稼働を止めた工場たちはしんとして、ついさっきの喧騒が嘘のよう。薄鼠色の中にも鈍いオレンジを映していた海は、今は墨汁のように波打っています。残っていた日中の熱が急速に失われ、ひんやりとした堤防が墓石のように感じられました。夜の中のペグレスの顔が、子どもの頃に夏休みをともに過ごした友達のように見え、学習塾カマボコの生徒たちと同年代のようにも見え、それから、すごく年を取ったようにも見えました。わたしたちは今いくつだったか。人びとの息遣いが消えた墓地のような湾の中で、迷い込んだ巨大生物とわれわれだけが呼吸をしていました。


***

 あの後、わたしたちはタクシーで電器屋街へ戻りました。
 もちろん誰もいない夜の堤防にはタクシーなど走っていませんから、ペグレスがスマートフォンのアプリで呼んだのでした。アプリでこちらの位置情報を知らせればタクシーがやってきてくれる、便利なものです。ひとつひとつの持ちものにも位置情報がついていれば、これまでの落としものたちもすべてこうして見つけられたでしょう。やってきた運転手さんは、少し笑っていました。
「いやあ、あなたがたの位置情報、海の中になっていましたよ。GPSのバグでしょうね、たぶん海際におられるんだろうと思って来ましたけれど」
 そう言われるとしばしわたしは、自分が海の中を漂っていた落としものであったような気がしました。運転手さんは、わたしたちが夜の海際にいたことについては特になにも尋ねず、車はみるみる市街地に入り、わたしたちは色彩と騒音の溢れる電器屋街に戻ってきました。さっきまで、波音だけが鳴る闇の中にあったこと、同じ市の内にあんな巨大な墓のような静寂があったことが嘘のよう。浦島太郎のような気持ちで閉店間際の量販店に入ったわたしたちは、スペックも価格も希望通りのマシンを買うことができました。

 翌日から、TVも新聞もインターネットも、巨大生物の話題で溢れました。誰が呼び始めたか、巨大生物には河口の橋に因んだ渾名がつけられ、その商標登録の出願を既に複数社が競ったとか。街の洋菓子屋や和菓子屋は、巨大生物の形を模したケーキや饅頭を売り始め、店頭の行列が取材されていました。炎天下に行列に並ぶ人たちは、祭りの屋台に並ぶ人たちのように、暑さのためか興奮のためか頬を紅潮させています。
「ひとりぼっちで河口に迷い込んでしまった巨大生物に、皆このパンを食べて思いを馳せてほしいんですよ」
 「巨大生物パン」を売り出したパン屋の店主が語りました。
「そうですね、巨大生物が町おこしの起爆剤になるといいですね」
 取材するレポーターは頓珍漢な返答をしましたが、店主は満足げな表情で大きく頷きました。
 当初全長5メートル程度と発表されていた巨大生物の大きさは、いや、その倍はある、いや、さらにもう少し大きい、と報道の中でどんどん膨張していきました。なんせ巨大生物は警戒しているからか弱っているからか、まだその全貌を水面上に表してはいないのです。
「本来こんなに人間に近いところへ来る生き物ではないんです。獲物を追いかけてうっかり河口まで来てしまったんでしょう。ところが大きすぎるせいで、湾の中でUターンできなくなって」
「私は、海で仲間に苛められたのだと思います、海から逃げてきたのではないでしょうか」
「えー、単に仲間とはぐれちゃったんじゃないかなあ。かわいそう。絶対心細いよ、ひとりぼっちで」
 スタジオの出演者たちが推理し合っています。
「巨大生物は、死に場所を求めてやってきたんだと思う」
 おバカキャラで売り出されているタレントが妙に神妙な調子で言い、スタジオが一瞬静かになりました。
 引き続き行列の現場では、「巨大生物パン」を得た人たちにリポーターがマイクを向けています。
「隣の市から買いにきました、巨大生物が好きなので! 巨大生物、超かわいい」
「巨大生物ファンになったんだ、これも自分で作っちゃった」
 自分のTシャツを指さした若者が、カメラに向けてVサインを作っています。
「巨大生物Tシャツ、売れそうなら商品化しまーす」
 河口の湾の堤防には今日も野次馬が集まっているようでした。リポーターが野次馬にマイクを向けます。
「ちょっとだけ見えた! すっげえでっかい!」
 興奮した様子で叫ぶ子どもに、親が目を細めます。
「こんな機会はめったにないので、ひと目見せてやりたくて」
 リゾートめいた出で立ちの家族連れ、制服姿の中高生、相変わらず立派なカメラや双眼鏡を抱えた人たち。
「ええ、遠方から車で来ました。そうですね、こんなところで巨大生物なんてなかなか見られるもんじゃないですからね」
「巨大生物がこうして人間に近いところまで来てくれたことには、何か意味があると思うんですよね」
「全体の大きさが気になる! もっとよく見たーい!」
「でもちょっと不気味ねえ……あんな大きなものが河口まで来るなんて、今まで聞いたことがないわ」
 学習塾カマボコの生徒たちも、休憩時間は巨大生物の話ばかりしています。「先生は見に行った?」と訊かれましたが、なぜか「ううん、そんな暇なくて」とウソを言ってしまいました。授業前には皆スマートフォンの小さな画面を熱心に眺め、それぞれ、動画配信サイトに続々とupされた巨大生物レポートを見ています。ある配信者は現地へ足を運んではしゃぎ、ある配信者は重々しく語っていました。
「私はこれ、天変地異の前触れだと思います。実はこの件だけじゃないんです。報道されてないだけで、別の地域でも先月の初めに巨大なイカが打ち上げられる異変がありました。ある地域では腕の数が多過ぎるタコが見つかっています。こういうことは必ず、大きな災害の予兆です。みなさん、今一度、災害への備えを確認してください」

 週末、昼下がりにペグレスが自動車で迎えに来ました。もう一度、巨大生物を見に行こうというのです。今度は、真下に巨大生物が見えるであろう河口大橋の上から見よう、という提案でした。海浜線の駅から大橋までまた一時間歩くのは嫌なので、レンタカーを借りてきたというのです。冷房の効いた自動車に乗ってきたペグレスのシャツは、今日はサラリとしたままでした。わたしは麻のワンピースに麦わらをかぶって助手席に乗りました。
「新しいPCの使い心地はどうですか?」
「問題ないよ。サクサク動くし、Officeも高かったけど正規品にしてよかったよ」
「Microsoft Officeといえばあのイルカ、いつの間に消えてしまったんでしょう」
「いたねえ、イルカ。『お前を消す方法』を質問したね」
 同年代の友人たちはこの時候、夏休み中の子どもたちに手を焼いたり子どもを連れて盆の帰省の準備をしたりしている頃です。いなくなったイルカの話などしながらレンタカーで巨大生物を見に行くなど、根無し草であるわれわれだけがいつまでも学生の夏休みのようなことをしているなあ、と思います。しかし河口大橋の近くまで来ると、同じような人たちがたくさんいたことが分かりました。橋への道路がひどい渋滞です。
「考えることは誰も同じだね。皆、橋の上から巨大生物を見るつもりなんだ」
 しかし前を走っていた車たちは、橋の手前まで来て橋に入らず脇道へ逸れていきます。外で警備員が何か叫んでいます。どうしたのだろうと警備員が示すほうを見ると、なんと電光掲示板に「河口大橋本日終日車両通行止め」と表示されています。たしかに、このままだと見物の車でごった返し、巨大生物見たさに速度を落として走る車や途中で停車する車のせいで事故が起こりかねない、と判断してのことでしょう。われわれも渋々、ロードコーンで閉ざされた橋の入口を横目に、脇道へ逸れました。
「仕方ない、歩いていきましょう、車道は通行止めでも歩行者は渡れるみたいです」
 たしかに電光掲示板には「車両通行止め」とありました。といっても日頃歩いて渡る人はほぼいないであろう長大な橋です。わたしたちは手近な駐車場に車を停め、橋の入口へ向かいました。暑い盛りの時間は過ぎたとはいえ真夏の午後、冷房の効いた車内から出たわたしたちはまた服に汗を滲ませました。大橋の入口まで来ると、わたしたちと同じく諦めの悪い者たちがぞろぞろと、ロードコーンの脇から大橋へ突入していました。普段は交通の要衝である大橋の上に、車両が一台も無く人間だけが歩いているのは新鮮な風景でした。
「早いとこ見とかないと、海に帰しちまうかもしれねえもんな」
 前を歩く男たちが話しています。
「盆明けに市も動きだすって話だ」
「しかし、海に帰すったって、どうやって連れ出すんだろう。あんな大きいもの。舟で牽引するにもずいぶん難儀なんじゃないか」
「餌で誘導すればいいんだよ」
「そんなことできるのか、そもそも本人の意志としてはどうなんだろう、いや、人じゃなかったな」
 そんな話を聴きながらわたしたちも彼らに混じって歩きます。橋の上を歩いている人たちは皆どこか、わたしたちと同じ根無し草の風情です。すぐに海上へ出ました。影を作るものが無い大橋の上では、陽射しが強く感じられますが、海からの風があるので助かります。別にここまでして巨大生物を見なくても、という気持ちと、ここまで来たら近くでよく見たい、という気持ちが交互に湧きます。周囲の人びともそんな気持ちであったでしょう。頭上ではヘリが旋回し、少し期待が掻き立てられます。ところが、20分ほど歩いたところで、前方を歩いていた人たちがUターンしてきました。ぞろぞろと橋の入口へ戻る彼らの中から、
「なんだあ」
「それじゃあもう見てもしょうがないね」
 という声が聞こえます。ペグレスが尻ポケットからスマートフォンを取り出しました。わたしもバッグからスマートフォンを取り出し、この一週間ニュースサイトのトップになっている「巨大生物速報」を開きました。
「本日午後14時56分、河口に漂着していた巨大生物の死亡が確認された。専門家チームは原因究明を行う予定」
 あー、帰るか、終わり終わり、がっかりだねえ、などと言いながら人びとは引き返していきます。死んだ巨大生物は、見る価値の無いものとなったようです。橋の上は、潮が引くように誰もいなくなりました。

「どうする?」
「見に行きましょう。生きてるときだけ野次馬がやいやいと見に来て、死んだら誰も見てあげないなんて、巨大生物がかわいそうだ」
 なるほどとわたしは思い、わたしたちは引き続き大橋の上を進みました。陽射しがだいぶ落ち着いてきた頃、大橋の中央あたりに着きました。ちょうどこの下あたりに、巨大生物がいるはずです。そこから海を見下ろしさえすればよいと思っていましたが、大橋には高い防風柵が設置されており、その隙間はごく細く、上手く下が見下ろせません。
「次の橋脚は、小さな島を足場にしているんです」
 ペグレスが言いました。河口大橋の中央の橋脚は離島を土台にしており、面積のほとんどを橋脚の土台が占めるような小さな島だが有人島である、という話は、そういえば以前にも彼から聴いたことがありました。
「あまり知られていませんが、離島があって、一応この市の土地なんです」
 この街はずいぶん都会だ、という話を以前したときに、そんなふうにペグレスが言ったのでした。少し歩くとペグレスの言った通り、橋脚の上に当たる道路の傍らに、下へと降りるゲートがひっそりと開いており、「islanders only」と書かれています。わたしたちはislandersではないのに、と思いながらゲートをくぐり螺旋状になった道をずっと降りてゆくと、島に降り立ってすぐ目の前に巨大生物の姿が見える、かと思いきや、生い茂る草樹と建物に阻まれて、海は見えませんでした。海に浮かぶごく小さな島であるはずなのに、どこにも海など無いかのようです。
「あのお店に入りましょう」
 ペグレスが目の前の建物を指しました。民家風の建物でしたが、ティーカップの絵の中に「喫茶GreenSleeves」と書かれた古びた看板が出ています。十軒も無いであろう島内の住民が利用するのか、大橋を渡る途中に立ち寄る人がいるのか、一日にどのくらいの人が利用するお店なのでしょう。扉を開けるとマスターらしき初老の男性が無愛想にわたしたちを迎え、わたしたちは珈琲を注文して一番奥の窓辺の席に着きました。奥の窓が海に面しており、すぐ眼下に水面が広がって見えます。店内には、わたしたちのほかは、常連らしき男性客がひとりだけ。マスターのすぐ横に腰掛けて煙草を吸っています。
「なんだ今日は。こんな店、普段誰も来ねえのに」
男性が火を揉み消しながら笑うと、マスターは別に声をひそめもせず、
「あの巨大生物だろう。死んでからも野次馬にやいやいと見られて、まるで見世物じゃないか、かわいそうにな」
 と言うのでした。さっきペグレスが言ったのと逆のことを言っています。いろんな考え方があるものです。しかしマスターの声は、ペグレスにはよく聞こえていなかったようで、彼はもう、窓の外を一心に眺めていました。夕18時。ここ二、三日で急に日が短くなったようで、いつのまにか海は暗くなりつつあります。わたしたちは窓の外に波打つ水面に目を凝らしました。波は黒く、巨大生物の姿がどこにあるのか分かりません。ふと、ひとつの波の中に白く煌めくものが見えました。それは巨大動物の何らかのパーツ、たとえば肢のひとつか尾の先ではないかと思われました。ずっと見渡してわたしたちは気づきました。視界一面に広がる黒は、海の暗さではなく、巨大動物の背であり、肢か尾かと思った煌めきは、単にひとすじの産毛が光って見えたにすぎない。黒い背は、不定形に遠大に広がっており、肢や尾はきっと波のずっと底のほうでしょう。巨大生物は、死してなお圧倒的な巨大さでした。この橋脚を支える小さな島は、その背の端にくっつく小動物のようで、その島の建物の中にいるわれわれは塵のようなサイズに思えました。見世物にしてかわいそうだとか、見てあげなくてはかわいそうだとか、いえいえ、わたしたちの見る行為、わたしたちの眼差しなどは、巨大生物の前では無に等しく、巨大生物に何の影響も及ぼさず、巨大生物が生きていたとて両者の眼差しが交わる世界は無かったでしょう。巨大生物の巨大さの前には、かれが生きているか生きていないかという違いなど、どれほどのものでもないように思えました。

 店内の有線放送から、昔流行った女性歌手の歌が流れ出しました。「その激しさ その声 その胸が/消えてしまった 抱いて抱いて抱いて」。わたしの子どもの頃に流行っていた歌でした。ラブ・ソングなのでしょうけれど、好きなひとを殺してしまって後悔している歌みたいに聞こえる、と言って、おかしなことを言うものねと親に笑われたものでした。
 巨大生物が死んで海に沈むと、やがてその屍体の周辺にさまざまな海中の生物がやってきて、その骨においてひとつの生態系を成すのだと聞いた話を思い出しました。これほど巨大な生物の骨組なら、海の中の高層アパートのようなものでしょう。湾の中に、骨の高層アパートが建ち、海の生き物たちがそこへ棲みつくと、川を流れてやってきた落としものたちもそのアパートに入居します。遺骨アパートは、きっと河口いっぱいを満たすほど大きなアパートであろうから、流れてくるものたちをちゃんと堰き止めキャッチできるはず。サンダル、蛍光マーカー、キーホルダー、ぬいぐるみ、詩集、気に入っていた上着、友達からのお手紙、ダンゴムシの死体。先住入居者である軟体動物に、クマのぬいぐるみが挨拶します。遺骨アパートのコンシェルジュを務める環形動物が、蛍光マーカーや脱走ハムスターや行方不明ののらねこをそれぞれの部屋へ案内します。お盆の終わりになると住民たちは、アパートの屋上に登り、水面から顔を出して上流を望みます。お盆の終わりにはこの川のずっと上流にあるわたしの故郷の街で、お山に火が灯ります。お山に書かれた「大」の文字は、巨大生物の「大」です。



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