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毎日継続中の四天王寺の最重要な行事。お舎利。
四天王寺は歴史が古いだけあって、様々な行事、法要がおこなわれています。人が多く集まるのは、お彼岸です。お彼岸詣りを毎年欠かさないという方のなかに、まれに、四天王寺はお彼岸の時しかやってない、と思い込んでいる方もいらっしゃいます。いやいや、毎日、参拝者でどなたかの命日はあるわけで、四天王寺は年中無休ですよ、と説明していました。
四天王寺の法要のなかで、平安時代から記録に残る、毎日の重要な行事があります。お舎利です。
大坂の陣などの大混乱のなか、どこかで継続されていたかは不明です。可能な限り、継続されてきた、毎日のお勤めです。一般参拝者も参加され、功徳をいただけます。
鎌倉時代の一遍絵伝のなかの、四天王寺金堂お舎利の場面です。
お舎利とは、お釈迦様の遺骨とみなされる、ありがたい粒です。
聖徳太子信仰のユニークさは、二歳幼児、青年、大人のお姿、生涯にわたり信仰の対象となってきたことです。ひと昔まえ、幼児死亡率は高かった。人々は、子供はまだ半分は神仏の世界にいる。だから、容易に神仏の世界に帰ってしまう、と考えました。だから、子供は神仏のものであり、親の私有ではない。みんなで大切にした。
聖徳太子二歳のおり、父用明天皇が東の空を礼拝するのを真似て、毎日東に向いて南無と礼拝するようになります。数え歳の二歳ですから、いまでは一歳です。その掌のなかに、仏舎利が幾度か現れた。それが、四天王寺と法隆寺に伝来してきました。
歌人であり、四天王寺の別当(責任者)もなんども勤めた、慈円は、お舎利の由来を、亀井水に託して語っています。
お釈迦様が亡くなろうとされていたとき、月は悲しみに満ちた光をそのお姿にそそいでいました。その月が、いま亀井水に映っている。
月を映す水鏡。つまり、慈円の生きた平安時代末まで、亀井水は屋外の施設であった。
一遍絵伝に描かれた、おそらく最初の亀井堂です。お堂というより、亀井水のふたつの石槽を囲んだだけの、小屋です。