家畜との共生と、その限界
見出し写真は兵庫県宝塚市の清荒神。wikiより。
境内には牛頭天王をまつる護牛神堂がある。
牛頭天王という神は祇園信仰の神だが、明治政府は禁止した。しかし、日本人は祇園という言葉を守りとおした。
亀井堂のななめ向かい、亀井水からすると冬至の日の出の位置に、牛頭天王ではないが牛神をまつる牛王尊がある。
牛と人間の関係は、奥が深い。
人間は、人間だけを社会の構成員として、認識してきたのではないでしょう。家畜化した動物は、共同体の構成員として、他者として相互に自我として認知しあうことになる。同時に、屠殺という営みも、日常化される。
今日でも、屠殺は、タブーとして隠蔽される。
文明、カルチャーは農耕を意味する。植物は、もちろん神秘をはらんでいる。しかし、日常化された、相互の自我とはならない。植物の生命力の基底に神を感受し、神殺しとして農耕の起源を語る神話は、普遍的にある。
神殺しのイメージは、やはり、屠殺の日常化と重なっているかもしれない。
農耕の動力として欠かせないのも、牛である。
人と牛は、共労の仲間でありながら、屠殺という関係をもってそれを絶ちきる。
共同体の根源にある、暴力と悲愴。それは、聖なるものに昇華されねばならない。同時にタブーとして、見えないものとされてゆく。
牛頭天王という疫病神にして最強の守護神。
明治政府は外来信仰として厳しく禁止した。
祇園信仰という言葉が固く護持されてきたように、牛頭天王は容易に消え去らない。
失った信仰は、荒ぶる恐怖として、社会に復讐するのかもしれない。