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聖徳太子の遺言歌と富本銭のトミ~官立寺院四天王寺が福祉施設として生まれた背景には、無貨幣の時代の経済基盤があった。と、愚案します。
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亀形水盤が593年創建時の遺産
聖徳太子の命日22日をむかえるたびに思いだし、考察する、聖徳太子の遺言歌。
いかるがのとみのいのみずいかなくに
たぎてましものとみのいのみず
死のまぎわの、太子の絶唱です。
大切な歌ですが、意味がわかっていません。
前日に亡くなった、かしわて(膳)夫人に呼びかけた歌であることは、間違いありません。
私は、平安時代に亀井水と愛称が付された、四天王寺の太陽祭祀のこの水が、[とみのいのみず]ではないかと推測します。
亀井水が、とみ、と呼ばれたならば、飛鳥の酒船石遺跡の亀形水盤との関連で、注目することがあります。
飛鳥の、この亀の水が流れる一帯には、飛鳥池工房と呼ばれる、工業団地が作られます。
そこで鋳造された、日本初の貨幣が、「富本銭」です。ここにも、富という字で、とみ、が示されます。
折口信夫によれば、とみ、には、水神の蛇の意味があります。
あるいは、ニギハヤヒを迎えて、ヤマトを建国した、トミヒコの国、とみ、があります。
とみの国とは、蛇神=龍神の国でしょうか。
生駒山は、かれらの聖なる山です。
その生駒山から上る太陽を礼拝する、四天王寺のとみのいのみず、というわけです。
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飛鳥酒船石遺跡の亀形水盤
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両側の七曜紋は亀甲に見えないではない
飛鳥の酒船石遺跡の二段石槽の亀形水盤。私は、四天王寺の亀井水が、明治末まで同様の構造と規模の二段石槽であり、それは四天王寺創建時以来守られてきたものだと設営状況や境内地形から推測します。だから、亀井水が前例となり、斉明天皇が模倣されたものが、飛鳥の事例となります。
亀井水は、ずっと現役で、信仰の対象として大切に維持されてきた。
飛鳥の亀形水盤は、奈良時代には忘れられ、埋没してしまった。
斉明天皇の息子、天武天皇は、まだこの遺跡を維持し、この水が流れ下る一帯に、工業団地を造成された。飛鳥池遺跡と呼ばれています。
そこで鋳造された、日本初の貨幣が、富本銭です。富本銭の発見と亀形水盤の発見は、一連の発掘作業の成果でした。
しかし、富本銭は文献には明記されていない。正式の貨幣発行は、和同開珎、からとされています。富本銭は、試作、もしくは宗教的呪物として用いられたのではないか。
では、貨幣の無かったとき、経済はなかったのか、といえば、無いわけがない。
中国のように、沖縄やベトナムの子安貝を貨幣に使っていた、といった痕跡もない。
つまり、四天王寺のような大建築を生み出す、社会インフラをも可能にする、経済社会は、はるか昔からあった。
無貨幣といえど、強固な社会システムがあった。
なんと言えばいいのだろう。
贈与による、信用社会、だろうか。
互いに、必要なものを、贈与しあう。その、信用のコントロールのための、信用の代表としての天皇の霊的権威が生まれた。
分かち合いなさい。四季折々に需要も供給も変化するから、直接交換はできない。だから、生きるために、惜しみ無く贈与する。
お互いに、生きることを支え会う、信用。別に証文も約束もなく、信用があればよい。
官立寺院四天王寺が福祉施設として生まれた背景には、そうした無貨幣の時代の経済基盤があった。と、愚案します。
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橿原考古学研究会撮影
人物は南