民間信仰のスーパースター、猿田彦。天武・持統天皇のアマテラスへの神話統合へのプロテストとしての庚申、稲荷信仰の主役として。
二見ケ浦は誰の聖域か
二見ケ浦の夫婦岩。その間から登る朝日を礼拝する。日本人の意識に焼き付いた原風景です。そして、太陽を礼拝するのだから、ここはアマテラスの聖域だと、多くの人が考えているのではないか。
実は、ここにある神社は、猿田彦神社。猿田彦の使いとされる、ヒキガエルの像が置かれています。
伊勢、というと、伊勢神宮のある南部を意識しますが、伊勢の国は北は桑名、四日市、南は熊野まで、広大な地域です。そして、伊勢の国の一宮は、椿大社。椿大神とは、猿田彦のことです。
伊勢神宮は、猿田彦の国の一部を間借りしている、ということになります。
歴史的な事実として、伊勢神宮を創建したのは、七世紀、天武天皇と持統天皇の夫婦です。同時に、古事記の編纂が始められ、アマテラスを中心とした神話がまとめられてゆきます。特に、持統天皇の諡(おくりな)が、大倭根子天之広野日女尊(おおやまとねこあめのひろのひめのみこと)です。天之広野、は高天ヶ原を意図したものでしょう。
持統天皇は、文武天皇に生前譲位したのち、702年58歳で亡くなります。
庚申信仰の始まり
天武天皇と持統天皇により、アマテラス神話と伊勢神宮の基礎が築かれてゆく時代、突然四天王寺に庚申神が顕現します。
持統天皇の死の前年、701年正月七日、疫病封じの祈祷を行っていた四天王寺の豪範僧都のまえに、帝釈天の使い、青面金剛童子が現れたとされます。
この日は、庚申の日ではないのですが、正月七日は特別な年始の縁日にはちがいありません。それを、猿、申に結びつけ、庚申の日であったと伝承されます。
青い色の神。インドではヴィシュヌ神の特徴です。南方熊楠は、青面金剛童子はヴィシュヌ神であると断定します。
ヴィシュヌは様々なキャラクターに変身します。代表は、大古代叙事詩ラーマーヤナの、ラーマ王子です。そして、ラーマを助ける猿の英雄ハヌマーンは、東南アジア最大のヒーローです。
庚申信仰では、見ざる聞かざる言わざるの三猿が、主役となります。あるいは、猿田彦を主役とする場合もあります。疫病封じの水際作戦、集落の入り口をまもる道祖神として庚申塚が立てられます。道祖神として、猿田彦もそこに一体化するわけです。
ラーマーヤナが日本にどうやって伝わったのかは、あるいは伝わらなかったのかは、わかりません。断片的な信仰として、青い神と猿の英雄の組み合わせは、伝来していなかったというほうが無理でしょう。
アマテラス信仰へのアンチテーゼ?
太陽信仰は、亀井水の分析からあきらかになる、四天王寺の基底となる信仰です。太陽信仰の主役がアマテラスへと改変されていくときに、庚申信仰の猿が登場する。猿田彦は伊勢の本来の太陽信仰の古層の神でしょう。ならば、四天王寺に庚申信仰が起こった時代背景には、古来の民間の太陽信仰の復権、プロテストともいえる意図があるのかもしれません。
猿田彦は、塩土のおじとも同一神ともされます。塩土、つまり、塩田の海洋神。えんでん、から、猿田、に変換されます。太陽と海の塩田のめぐみ、それが猿に転化してゆく。
稲荷信仰のなかの猿田彦
四天王寺に庚申信仰が起こったのが701年。
四天王寺とゆかりの深い、山背の国の秦氏が、711年稲荷山に三柱の神を祀り、稲荷信仰が始まります。
宇迦之御魂(うかのみたま)、大宮能売(おおみやのめ)、佐田彦。
稲荷神としては、宇迦之御魂が主になりますが、ならんで、宮中の巫女、そして佐田彦が創建の三柱です。佐田彦とは、猿田彦のことと理解されています。
八世紀初頭、庚申信仰と稲荷信仰が登場し、日本人の信仰の大動脈となって、今日に至ります。
古事記、日本書紀の編纂が進むなか、聖徳太子信仰を継承する、四天王寺と秦氏によって、猿田彦は歴史の主役として、大きな役割を担ったわけです。
天王寺舞楽のなか、聖徳太子が吹く笛にひとり躍り狂う猿神、蘇莫者(そまくしゃ)です。
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