万博の夢洲はメタンガスがわき出す汚染軟弱地盤~で思い出した法華経火宅の比喩
見出し写真は、2017年カリフォルニアの山火事で類焼する家屋。
聖徳太子も義疏をしたためた法華経の譬喩の一つに、火宅の教えがあります。
長者の家に火の手が上がり燃え広がっている。なかでは子供たちが火に気がつかないで遊びまわっている。さて、どうしたものか。
この火宅の比喩は、わかりやすくこの世の業苦を説いたものとして、有名です。
カリフォルニアでは山火事がよく起こります。
類焼の危険をいちはやく予想し、住民が避難するのは当然です。
警告されても、うちは大丈夫だ、今までもたいしたことなかった、と高をくくっていたら、命を失うことになります。
あるいは、法華経に説かれたように、遊びに夢中になっていて気がつかない。
あるいは、家の財産に執着して、離れようとしない。
火宅無常のこの世界、誰にとっても切実です。
今の日本を、火宅のなかにいて無視し、遊びに執着する、大人たち、と警告する論説がありました。まさにしかりです。
山火事の業火が彼方に見える。火の粉も飛んでくる。それでも、愚かな親がうちは大丈夫だと子供たちに語り続ける。
災害に対しては、最悪の事態も想定するのは、鉄則です。それを、流言蜚語と笑い、なんら対策をするべきではない、というのは、仏様の教えに学ぶ以前に、愚かなことです。
とまあ、仏さまのお話を聞いても、現し世はいずこも火のクルマ。どうしょうもございません。と一言ぼやいて、気がついた。
火のクルマから降りて、水をぶっかければいいんだ。
世の中には、さらに火を燃やし焼き尽くせ、というアジテーションを好む人もいる。いや、威勢はいいけど、それ迷惑なんですが。
逃げるが勝ち。無理ならやめようよ。
逃げる、止める、が一番かっこいい。