「人生の絶対的味方」
2022/06/02(木)
自分の時間
この1ヶ月、1度もnoteを投稿していない。
下書きのまま投稿していないnoteがいくつもある。
この1ヶ月はとても目まぐるしかった。
GWまでは引越し作業に追われ、GWが明けるとパートナーが怪我で入院、私は風邪で1週間寝込み、パートナーの退院後の介抱をしたあと3日間熱と頭痛吐き気で寝込んで、今日に至っている。
4月からずっと引越し関係で忙しく、GWが明けるまでがんばろうと思ってきた矢先にパートナーが入院になり、忙しさと同時に心がガサガサになっていた。
ずっと自分だけの時間がほしかった。
そして今日、やっと落ち着いて自分だけの時間を持てている。
心のガサガサ
今日自分と向き合ってみて、心のガサガサが何なのか分かってきた気がする。
それは「自分の人生の絶対的味方」がいない不安から生じているものではないかと思ったのだ。
味方がいないと、自分が今考えていることやしていることに自信が持てない。
今まで「自分の人生の絶対的味方」は主治医だった。
主治医は私情を持ち込まず、唯一私だけの利益や私の人生が良くなることだけを考えて助けてくれる存在だった。
しかしその主治医は今年の3月に退職した。
私の人間関係の捉え方
私の周りの人たちは私の味方であっても、ときに周りの人同士で利害関係が対立することもある。
今まさに私のパートナーと私の家族がその状態である。
リアルな人間関係の中では、唯一私だけの利益や私の人生が良くなることだけを考えてアドバイスをしてくれる人など存在しない。
私は自分の人間関係の中で、それぞれの人に対してそれぞれ違う顔があり、いろんな側面を見せていると思う。
そして利害が一致しない人間関係の中心で、様々なバランスを取りつつ自分のしたい方向へ進むように行動している。
バランスを取るために時には自分を犠牲にすることもあるし、その代償は自分の不調として降りかかっている。
しかし自分に負荷をかけてでも、自分がタイミングよく周りとバランスを取らないと私の周りの人間は私に裏切られたと思ったり、離れて行ったり、敵対化してしまったり、不幸にしてしまうと思っている。
これはかなり激しい強迫観念だ。
ちなみに優しさからそのような行動を取るのではなく、あとで誰かがピンチになったとき困るのは自分だからという計算の元に動いているだけなのだが。
今までの主治医
微妙で慎重な人間関係の調整をしないといけない中で、もやもやを整理したりぶつけたりできる存在が今までの主治医だった。
主治医に自分の考えを伝えることで、自分のあるべき姿を確認し軌道修正できていると感じていた。
そして私はこの主治医のおかげで、自分の人生が全体的にいい方向へ向かっているという前向きな気持ちを保つことができていた。
しかしその主治医はもういない。
その主治医不在の中で私は八方美人になりながら、誰に対しても本当の自分を見せず、誰かを裏切っているような、自分の筋が通っていないような、誰かを不幸にしているような不安定な気持ちになっていた。
それがガサガサという音を立てていたのだろう。
主治医の代わり
あるとき不安でいっぱいになって、パートナーに自分の人間関係についての考え方やしていることを白状したことがある。
そのときパートナーは、バランスを取りながら調整するのはきつい、自分のやりたいようにするのが一番だと言った。
そしてあくまでも自分以外は他人の人生なのだから、困っているときに助けてあげればいいとも言った。
やりたいようにやっていいという言葉には少し救われたが、誰かを傷つけたと知りつつ自分は幸せになれるだろうかという疑問や葛藤は残ったままだった。
そしてあくまでもパートナーは私の人間関係の当事者であり、私の言動次第で利害が分かれる存在だと再認識した。
またパートナーにとっても私の悩みに対しては、パートナーとして助けてくれることしかできないのだ。
人生を共にするパートナーであっても、今までの主治医の代わりにはなれない。
とんでもなく子ども
ここまで書いてきて笑えることなのだが...
「自分の人生の絶対的味方」など、なんと子どもじみたことを言っているのだろう。
周りを見渡せば、「自分の人生の絶対的味方」がいる人はごく少数だろう。
大人と言われる人たちは皆、孤独と闘い自立している。
とても当たり前のことだ。
しかし私はまだ「自分の人生の絶対的味方」を求めている。
自分はメンタルが弱いからという理由で、今までの主治医のような「自分の人生の絶対的味方」が必要だとその存在を正当化していた。
メンタルが弱い部分を主治医が助けてくれて、ピンチになると主治医が何とかしてくれると本気で思っていた。
なんとまぁ、驚くべき甘え根性だ。
絶対的味方=自分
そして同時にとても大切なことに気付いた。
それは今はもう、私にとっての「自分の人生の絶対的味方」は自分しかいないということだ。
唯一私だけの利益や私の人生が良くなることだけを考えてアドバイスできるのは、自分だけなのだ。
甘えたことを言わずに、自分の相手は自分でしなさいということだ。
そんなことに気付くなんて、今まで自分はいかに子どもだったのだろうかと恥ずかしく思う。
自分にできること
自分しか味方がいないと言っても、私は今までの主治医が私にしてくれたように自分が自分を助けられるとはとても思えない。
精神科医としてのテクニックや人生の先輩としての意見、そしてミクロ/マクロなど私と違った視点からの気付き、厳しい先生を前にする緊張や戒めなど、私は今までの主治医に求めるものがたくさんある。
しかし私にもできることがあると思う。
それは自分の時間をしっかりと確保することだ。
自分の時間とは、今日のように考えたり文章を書いたり、好きなところに行って好きなことをしたり、自分が何者で何を考えているか確認するための時間だ。
そして今まで主治医を通して自分の人生を良い方向に進めることができたように、自分をまるで鏡を見るように自分でチェックして「大丈夫か?自分?」と問うことはできると思う。
今日鏡を通して自分を省みた結果だが、大丈夫じゃない自分がいた。
不安と反省が大部分を占めている。
将来自分が後悔することが起きるかもしれないなどと考えている。
しかしわずかな希望もある。
それはこの約1ヶ月、体力的にもメンタル面でもなかなかハードだったにも関わらず、めげずに意欲的に取り組んだこと。
そしてやるべきことがひと段落ついた今週、3日間だけ寝込むだけで今のような体調に復活できていること。
そのことに少し自信を持ち、自分を労う気持ちになれていることは、自分にとって進歩だなと思う。
さいごに
明日は新しい主治医の3回目の診察だ。
その前日に、こうして自分の時間を意識して持つことができてよかったと思う。
その習慣を作ってくれた今までの主治医に改めて感謝したい。