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「正欲」を読んで
浅井リョウさんの「正欲」を読みました。
私、何もわかってないな。誰のこともわからないんだ。
“わからなさ”もほっておくことが
が私に新しい優しさを伝えてくれた気がします。
この本を読んで自分自身の「正しく」いたい「欲」について考えさせられた。
確かさ、まとも、妥当、正当
自分の正しさの一つに
「わかる」があったのだと思います。
理解したい。理解することが正しい。
自分の「正しさ」が他者にとって正しいとは限らない。
でも、正しい自分でいようとする自分は自分の原動力であったりもする。
それは、それでいいと思えます。
正しさ、というエゴ。
自分はどうあるべきなのか
どうすれば傲慢な「正しさ」と距離が置けるのかを、読みながら読み終えてからも、ずっと考えさせられました。答えは出ません。
社会として
不具合やねじれを
「多様性」という言葉でラベリングしすぎずに
「個」としても自律すること。
誰にだって人に言いたくないこともある。
表に出さない感情も嗜好も権力も。
社会としてもどうあるかは
善意のもと成り立てばいいなと思います。
(これも個としての意見)
この意見も、小説の登場人物からすると余計なお世話で偽善と捉えられてしまうかもしれません。
世界は広いしわからないし、想像を超えることがたくさんあるんです。
小さくできることは、
そばにいる存在は大切にして、共に受け止めること。
「遠くまで」「世の中のすべて」と意気込んでしまうと、自分の中のカテゴライズで「ありのまま」を受け止めるのは不可能ですが
身近な人と出来事は、受け止めていきたいと思います。
そばにいる人や関わるコトに対する
「理解したい」というある優しさを持ちたい。
持ちたいと思っていることが
自分に対する誠実さだと
捉えています。
自分の心は変化するもの。
物差しも変化するし
受け入れきれない現実も直面するけど
そんなもんなん。
と思えることが
少しだけ優しく
明日も生きようと思えることかもしれません。