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篠田節子『弥勒』を読んで
9月14日
これを書くと言い訳みたいになってしまうのだけれど、最近は読書の集中力を保つことが難しく、特に小説で情景を掴むことが上手くできない状態が続いていた。そんな中「弥勒(篠田節子)」を読んだのだが、これはすんなりと頭に入ってくるタイプの小説ではなく、情景がずしりと重く響き、なかなか読み終えるのに時間がかかった。なぜこの小説を読むことになったのかは忘れてしまったのだけれど、どこかで書評を読んで引かれたのだと思う。
この小説は、チベットとインドに挟まれた山間の架空の小国パスキムを舞台にしている。パスキムはこれといった産業も無く、山地ゆえ大規模な農業もで出来ない厳しい環境の小国なのだが、独自の仏教文化を育んでいて、その多彩さ、美しさから観光立国としての地位を築いていた。
物語の主人公永岡は、新聞社に勤めて美術関係のイベントを企画する仕事をしていた。永岡は仕事でパスキムを一度訪れ、その仏教文化の美しさに一目で魅入られた。その魅入られ方は、単純に好きという度合いを越えていて、なかば異常とも言えるものだった。永岡はある日、パスキムで政変が起こり、その壮麗な仏教美術が破壊されているという情報を得て、真相を確かめるために密入国を試みる。そこで見たのは、破壊された仏像、虐殺された僧侶たち、人々が消えて閑散とした都市という壮絶な風景だった。
その後は、革命を目指してパスキムをゼロから作り直そうとした集団のグロテスクな現実が描かれていく。長岡は、革命運動によって内部から崩壊していくパスキムと、人々の運命に巻き込まれていくのだが、その悲惨な情景がこれでもかというほど描かれていくので、それが重く響きなかなか読み進められなかったのだと思う。
パスキムの壮麗な仏教文化の背景には下層民の搾取という残酷な現実があったのだが、それを打ち砕くべく革命を目指す運動の現実も、それにも増して悲惨だった。行き過ぎた理想主義の行き着く先というのは、現実の世界でも文化大革命やカンボジアのポルポト主義でも起きていて、「弥勒」ではその極限が描かれたのだと思う。
初めはパスキムの美術の外面的な美しさに囚われていた長岡は、宗教が否定されている悲惨な日常の中で、その価値観を変えていった。終盤の長岡の、パスキムを救うんだという決心で最後救われた気分になった。
壮麗な仏像や寺院などの仏教文化の奥にある、人々が宗教に縋る本質的な願望を感じた。テーマが重くて、さくっと読み進められる作品ではないが、読後感は強くずっと印象に残っていく小説になっていくと思う。