主役になれなかった君へ
冬の風物詩、全国高校サッカー選手権が幕を降ろした。
僕も当然のごとく観戦した。
年末で選手も指導者も一区切りついた僕は、ただのサッカーファンと化していた。
4年前、高校生だった僕には立つことができなかった舞台。
いつ見てもやはり心にくるものがある。
高校サッカーは普通に好きだ。
しかし近年はら純粋に楽しむことができていない、というのが正直なところである。
試合内容に対する不満などではない。
高校年代の試合に、「レベルが低い」などといったいちゃもんを付けるつもりもないし、そんなのはお門違いだ。
むしろ、3年間という短い期間の中であそこまで人々の心を動かすゲームができるのはすごい。
選手とスタッフの皆さんに敬意を示したい。
選手権のあの雰囲気、他にはないものがある。
国立の舞台を夢見て高校サッカーに打ち込む選手も多い。
あれほどの大観衆のなかプレーできる環境は、日本ではJリーグ以外存在しないのではないだろうか(大学もあそこまで持っていきたい、という気概はあった)。
「応援部員」
試合会場のあの非日常的な雰囲気を作るために、応援部員が担っている役割は間違いなく大きい。
ピッチで躍動する選手達の背景には、大勢の応援部員の姿がある。
声を枯らして必死に応援する者
手から血を流してまで、太鼓を叩き続ける者
ハーフタイムに単語帳を開いて受験に備える者
自分の時間や身を削ってまで応援しようとするその姿勢は、世間一般からは素晴らしいと賞賛される。実際、すごいと思う。
そんな彼らにも、メディアの目は向けられる。
「応援団も熱が入ります!」
「応援団長の○○君です!意気込みをどうぞ!」
こういうインタビューに答えているシーンは頻繁に見受けられる。
特に3年生で試合に出られない部員のコメントは印象的だ。
僕は、非常に心が痛くなる。
どうしても、彼らが「選手」であるということを差し引いて考えることができないのだ。
彼らも、夢の舞台にあと一歩届かなかった、選手なのである。
「応援部員」なんて呼ばれ方はして欲しくない。
しかし、選手であるにも関わらず、大観衆のピッチを目の前にして、スパイクを履くことすら許されない。
彼らは決して、サポーターではない。
それでも、試合に出ている選手たちを心の底から応援できる応援部員は本当にすごいと思う。皮肉とかではなく、本当に。
僕がそうではなかったから。
ロッカールームから入場してくる選手たち。
一般客と同じゲートから「応援部員」として会場入りする自分。
その対比は、あまりにも残酷だった。現実に心を押しつぶされそうになる。
声援を受ける側ではなく、送る側。
これもまたしんどい。
サッカープレイヤーは、誰しもがスーパースターになる自分を夢見るだろう。
でも、そんな理想の姿からはかけ離れている。背番号をもらうことすらできない。
○○高校頑張れ!
○○大学頑張れ!
保護者やOB、ファンの方々からのそういったメッセージも、自分に向けられたものではない気がしてしまう。
ピッチに立つのは自分ではないのだから。
僕はこの文章を通じて、応援文化に対する批判をしたいのではない。
輝かしい舞台をピッチの外から眺めることしかできなかった、主役になれなかった"選手"たちに、少しでも届いてほしい。
そんな想いでこの文章を綴っている。
素直な気持ちで応援することは難しい。
試合に出られない悔しさに押し潰されそうになる。
プレイヤーとしての自分の価値を認められない。
なんなら、チームが負けてほしいとまで思っている。
同ポジションでスタメンの選手が、致命的なミスを犯すのを期待している。
その感情が「正しい」と断言することはできない。
でも、その気持ちは間違っていない。
むしろ、その感情を抱けなくなったら、競技者として終わりだ。
君だけじゃない。共感者は山ほどいるはず。
君が輝くのはもっと先の舞台だ。
君が評価される環境がそこではなかっただけだ。
サッカーチームは山ほど存在する。また次の環境で花開けばいい。
だからどうか、サッカーが好きで、勝ちたくて、活躍したいというその純粋な欲を持ち続けてほしい。
悔しさに潰されてしまうのではなく、そこから這い上がるエネルギーに変えてほしい。
そしてどうか、こんなところでサッカーを辞めないで欲しい。
君はもっとサッカーに報われるべき人間なのだから。