”上手くなる”を考察する -数値化できない競技力向上にどう向き合うか-
我々は本当に上達しているのか
サッカーが上手くなるとは一体どういうことでしょうか?
選手・指導者ともに、”上手くなった”と感じるポイントには差異があるように感じます。
そしてそれは、サッカー特有の、上達を数値化することの難しさに起因します。
例えば、野球の投手であれば、球速の向上や配球の正確性などを数値化することで、上達を可視化することができるでしょう。また陸上競技のように、競技成績が数字で出る種目は言わずもがなです。
しかし、サッカーという構成要素が多く複雑なスポーツにおいては、自身の上達を有意な数値で可視化することが難しいと考えられます。
先で挙げたような、「数値の向上」と「パフォーマンスの向上」が密接に関わる種目(野球、陸上など)と比較すると、サッカーは「数字とパフォーマンスの距離が遠い種目」といえます。
そして何より、サッカーは他者評価依存のスポーツです。
これには、先ほど述べた数値化の難しさも深く関係しています。
サッカー競技者は、感覚的に上達を感じることもできますが、実際にその効果性を認識する方法としては、試合におけるパフォーマンスまたは結果に対する "他者からの評価" に依存せざるを得ないのです。
しかし、そういったサッカーの特性を理解していない選手・指導者は非常に多く、パフォーマンス向上に直結しないこと(数値化・可視化しやすい単純な要素)に焦点を当てたトレーニングに偏向してしまうケースは多々あります。
例えば、リフティングの回数を課題に設定し、その増加によって上達を測ろうとします。また、キックの飛距離やプレースキック、相手を想定しないボールフィーリングなど、上達が目に見えやすい要素を切り取って可視化します。
しかしそれは、パフォーマンス向上への直接的な影響力が低く、安心材料としての数字でしかなくなってしまいます(もちろん、試合でのパフォーマンスにつながる部分もありますが)。
サッカーはオープンスキルが求められるスポーツです。
であるにも関わらず、我々選手や指導者は、かなりクローズな視点に囚われてしまいがちなのです。
本当に、上手くなっているのか。
常に立ち返るポイントが必要です。
定義を避け、余白を生む
前述したように、上達を客観的に測ろうとすることで、クローズな視点に縛られてしまう人は多いです。そしてこの視点の偏りは、サッカーにおける本質的な上達を考えると、不適切と言えます。
では、クローズドスキルの向上は全く無意味なのでしょうか?
もちろん、そうとは言い切れません。
クローズドスキルの向上が、パフォーマンス向上に直接寄与することはありますし、オープンスキルを伸ばす導入としてクローズドスキルを向上させるのは適切な過程と言えるでしょう。止まっているボールを蹴れないのに、動いているボールを蹴れるのか?ということです。
また、クローズドスキルの練習は1人でもできることが多いです。
とりわけ育成年代においては、自主練習の動機づけとしてそういった課題設定をするのも有効であると考えられます。
しかし、ここで議論したいのは、「クローズドスキルの向上=”サッカーが”上手くなっている」と捉えてしまう人が多い、という問題についてです。
クローズドスキルのトレーニングそれ自体が問題なのではなく、その捉え方のずれが問題なのです。
では我々は、サッカーに深く関わる者として、この”サッカーが上手くなる”という極めて抽象的かつ不確定要素が複雑に絡んだ概念をどのように解釈すれば良いのでしょうか。
時間をかけて、検討していきましょう。
言葉(や概念)の意味を考える場合、たいていはその言葉を定義づけることによって結論を導きます。
しかし、この”サッカーが上手くなる”に関しては、言葉自体の意味を定義するのは適切ではないと考えています。
定義づけることで、言葉は具体的で限定的なものになります。
言葉と意味を結ぶことにより、その言葉を解釈する受け手側の余白がなくなります。サッカーに関わる抽象的な言葉に関しては、その余白を残しておきたいのです。
なぜなら、サッカーには絶対的な正解が存在しないから。
「これは上手くなってる」「これは上手くなってない」ということを決めるのではなく、
「上手くなるとはこういうことなのでは?」という議論・考察をすることそれ自体に意味があるのではないでしょうか。
もちろん、戦術やトレーニング原則等に関しては別です。監督が表現したいサッカーに合わせて、言葉の定義をするのはマストでしょう。
ただし、今回の議論ではそのようなピッチ上のディテールの話ではなく、あくまで抽象的な概念に関しての考察であるため、そういった立場をとります。
そこでここからは、”サッカーが上手くなる”という言葉そのものの定義づけをするのではなく、その概念に対する我々の思考態度について検討していきます。
言葉の意味が抽象的であるならば、その意味を解釈するこちら側が「どう受け取ろうとすべきか」という態度を定めることで、適切なスタンスをとることにつながるのではないでしょうか。
「上手くなった」の錯覚
少し議題からそれますが、ここで「反省的認識」という概念について触れておこうと思います。
私たちは、何かを学び理解した時に「分かった」という感覚を得ます。
そしてそれと同時に、「これが分かるということなのか」という実感も得ています。これが、「反省的認識」です。
これはスピノザ(16世紀オランダの哲学者)が提唱したもので、「人は何かを理解した時、それと同時に、”理解するとはどういうことか”を学んでいる」という考え方です。
反省的認識の立場でサッカーないしはスポーツにおける上達を考えた時、ある危険性を孕んでいると感じます。
できたと思っていたことが、実は全くできていなかった。
それと同時に、”でき方”の理解もずれてしまっていた。
「分かった」「理解した」「できた」という自己の感覚そのものが、根本的にずれていた場合の危険性です。
前章で述べた、サッカーにおける上達に対する認識のクローズ性は、こういった反省的認識のずれを生み出すのです。
例えば、数学で一次方程式の学習をするとしましょう。
例題や練習問題を解く過程で、実際に方程式に色々な値を代入し、使用することにより理解を深める、というのが適切なプロセスです。
これは、方程式を「理解している」と同時に「理解することを理解している」状態であるといえます。
しかし、いわば記号的に方程式を暗記していた場合はどうでしょうか。
「y=ax+b」を覚えてはいるものの、x,a,bに代入される数値の意味を理解していない。どこに何を代入すればよいのかわからない。
これでは、方程式それ自体を”記号として”覚えてはいるものの、実際に使用する物として方程式を理解しているとは言えません。
もっというと、「誤った理解をしている」状態であり、「誤った理解方法を『理解すること』として理解している」可能性が高いです。これは極めて危険な状態ではないでしょうか。
サッカーの文脈に置き換えて考えてみましょう。
「色々なボールタッチができるようになって、自分はドリブルが上手くなった。これが『サッカーが上手くなる』ということなのか。」
これが大きな間違いであることは自明です。
ボールタッチの種類が増えたこと。加えて、ボールタッチの上手くなり方を理解したこと。これは事実です。
しかし、”サッカーが”上手くなったと捉えるのは大袈裟ですし、サッカーが上手くなるとはどういうことかを理解した、なんてのはもってのほかでしょう。
このように、”サッカーが上手くなる”に対する思考態度が不適切であり、解釈がずれていることは多々あります。その場合、その選手は”上手くなる”のでしょうか。その指導者は”上手くできる”のでしょうか。
この思考態度の誤りは、最も忌避すべき上達の阻害要因といえます。
ボールタッチの例のように、”ボール扱いが上手くなる=サッカーが上手くなる” と誤解している例は非常によくあります。ボールコントロールの技術は確かに重要ですが、それは”サッカーが上手くなる”ことの必要条件であるだけで、十分条件ではありません。
ほんの少しのずれによって、 ”サッカーが上手くなった気でいる” ことを ”サッカーが上手くなった” と認識してしまい、どんどん本質からずれていってしまう危険性を、我々は認識しておく必要があるのではないでしょうか。
”サッカーが上手くなる”に対する思考態度
これまで、「サッカーが上手くなるとはどういうことなのか?」という問いに対し、サッカーを取り囲む人々の視点のクローズ性や、その危険性について述べてきました。
では、結論、我々は ”サッカーが上手くなる” に対して、どのように向き合えばよいのでしょうか。
前提として、サッカーは非常に複雑なスポーツであり、ゲームに影響を与える要因が多いです。そのため、人によって正誤判断が異なります。
具体的な解を出そうとするとどうしても人や環境によってずれが生じてしまうのが現実で、前章で述べた反省的認識の危険性がその際たる例です。
また、サッカーは外的要因との関係性によってパフォーマンスが大きく左右されるスポーツです。味方、相手、審判などの人的要因、天候やピッチコンディションなどの環境要因といった、コントロールできない要因とうまく付き合ってプレーしていかなければならないのです。
”サッカーが上手くなる” に対する思考態度を検討する上で、サッカーがいかに外的要因に左右されるゲームなのかを理解しておくことは必要です。
上記議論から、以下に記すような思考態度が適切だと結論づけたいと思います。
”サッカーが上手くなる” に対しては、「影響力の視点」が必要である。
「ゲームに対する影響力が増しているか」という態度で思考することが、"サッカーが上手くなる"に対しては適切なスタンスといえます。
”サッカーが上手くなる” ということを考える際には、抽象度を保ち、かつ外的要因を考慮に入れたうえで、そういった変則的要素との関係性の中で、ゲームへの影響力を高めていくという思考態度が重要です。これを念頭に置くことで、サッカーという複雑なスポーツにおいて、本質的な向上を見失うリスクを避けることができます。
サッカーの上達とは、単に技術や戦術の習得に留まらず、外的環境との絶え間ない関係性を理解し、その中でゲームへの影響力を育むことです。
こうやって、 ”サッカーが上手くなる" を考えましょう。
自分が”上手くなった”と思った時。
選手の成長を感じた時。
反対に、”上手くなっていない”と感じた時。
どんな時でも、一度立ち返って、「ゲームへの影響力が増しているか」という態度で考えてみてください。
自身のバイアスに気づき、その認識のずれを修正するための指標になるでしょう。
今後の展望
今回は、”サッカーが上手くなる”とはどういうことか?という問いに対して、「影響力の視点」を伴う思考態度が必要である、と結論づけました。
ではその影響力とは?という議論まで辿り着くことはできなかったので、これはまたの機会にしたいと思います。
引き続き、ご愛読のほどよろしくお願いいたします。