「人に教える」というのは、仕事ではなくあたりまえのこと
ぼくは礼儀やマナーにうるさい
ぼくは19歳から働いています。
多くの同年代がキャンパスライフを謳歌するなか、ぼくは年上の人たちにもまれながら、社会のルールやマナー、礼儀を叩き込まれてきました。
会社の先輩がいつもおごってくれるのを見て、「年上はおごるものなんだな」ということを学びました。他にも「ビールを注ぐときのラベルの向きに気を付ける」「先輩からビールを注いでもらうときは両手で受ける」など、いろんなことを教わりました。
最近は高校や大学を卒業してそのままユーチューバーになったり、フリーランスになったりするような人も増えています。そのこと自体はいいことなのですが、一方で社会人としての最低限の礼儀やビジネスマナーも学ばないといけないと思うのです。
時代は変わってきているので、「この作法こそが絶対だ」ということはありません。ただ、そこを知らないと損をする場面はいまだに多くある。若い人を見ていて、心配になるのはそこです。だから、ぼくが目の届く範囲では気づいたことは指摘するようにしています。
ユーチューバーなどのクリエイターも、いずれは結婚をして子どもを授かるなどして人生を歩んでいくでしょう。そのときに「世の中の常識を知らない」「ニュースも知らない」、そういう人たちが増えるのはよくないと思います。せめて「LINE NEWS」くらいはチェックしてほしい……。
ぼくは礼儀やマナーにうるさい人間だと言われます。煙たがられることも多い。ただ、それでも言い続けます。
たまに「ビジネス書に『電話に出るやつとは仕事するな』と書いてありました」とか「家入一真さんだって遅刻してるんだから、いいでしょ?」などと言っている若い人を見かけます。でも、それは大きな勘違いです。
「電話に出るな」「遅刻していい」と言っている人も、礼儀やマナーをわかったうえで、あえてやっているわけです。実績があり、キャラクターがあるから、許されているだけ。それをいきなり若い人がマネをしてしまえば痛い目にあうのは目に見えています。
人に教えることは「義務」や「仕事」ではない
ぼくはもともと体育会系の会社で鍛えられました。ヒカキンさんも長らくスーパーで働いていました。彼はスキー部にも入っていたので「体育会系的なもの」「先輩・後輩というもの」をわかっています。年功序列や「年上を敬う」という感覚もわかっている。でも、いきなり社会に出てしまった若い人は、そういうことを先輩に教えてもらう機会がありません。
「きちんとあいさつをする」「お客さんは上座に座らせる」などの礼儀やマナーをはじめ、ワードやエクセルの使い方など、ぼくも先輩からいろんなことを教わってきました。だからそれを後輩に受け継いでいくことは「義務」とか「仕事」ではありません。「当然のこと」なのです。
よく「人を育てるのって大事ですか?」とか「後輩に教えるのって、義務なんですか?」「これも仕事なんですか?」と言う人がいます。……が、そういうレベルの話ではないのです。
たとえば、子どもに自転車の乗り方を教えるときに「これは義務なの?」とは思わないでしょう。飼っている猫にエサをあげるときも「これは仕事なの?」とは思わない。「困っている人がいたら手を差し伸べる」のは人として普通のことだからです。
コミュニティをよくするために教える
「会社」というのはひとつの「コミュニティ」です。まったく別々の人間が、会社という「法律」の中に入って、ひとつのコミュニティをつくる。
では、人がわざわざ会社というコミュニティに所属する理由はなんでしょうか? もちろん「お給料をもらうため」ということもあるでしょうが、ぼくは「その会社をもっとよくするためにいる」と考えます。であれば、そのコミュニティに入ってきた後輩に対して教えてあげるのは当然のこと。
そこで教えない人は「自分さえよければいい」と思っている人でしょう。そういう人はやっぱりコミュニティの中でズレていきます。
このご時世、企業に就職しなくても生活できる人は増えました。「一芸」で生活できる人が増えた。これは素晴らしいことです。でも、会社というコミュニティに入らないことで、最低限知っておくべきことを知らずに年を重ねてしまう人もいる。ぼくはそこを心配しています。
社会人にとって「無知」は罪である
社会人にとって「知らない」というのは罪です。
ぼくは26歳のとき、社員の結婚式ではじめて祝辞を読みました。いまも年に何回かはそういう機会があります。よって、冠婚葬祭での立ち居振る舞いや一連の動作には自信があります。そして、それを後輩にも伝えるようにしているのです。
たとえば「祝辞を読むまでに司会の方と打ち合わせがある」「祝辞を読んだ後も主賓として式場にいるので、酔っ払ってはいけない」「ちょっとしたタイミングを見つけて新郎新婦のご両親のところに行き、ビールを注ぐ」などなど。読んだ祝辞はEvernoteにまとめておいて、後輩が祝辞を読むときには書き溜めたネタを渡してあげたりもします。
なぜ、そこまでやるのか? それは「義務」や「仕事」というよりも、「普通のこと」。「あたりまえ」のようにぼくはやってきたのです。そのことを疑問にも思っていませんでした。
学校は「義務教育」ですが、社会というのはもう完全に「個人の自己責任」になります。
礼儀作法は基本的な「知っておかなければいけないこと」です。さらに言えば、補助金や国の手当も知らなければもらえません。たとえば「港区は子どもが中学校に入るまで医療費が無料だけれど、他の区は違う」などということは、誰も教えてくれない。会社の中にだって、さまざまな手当などの仕組みがあります。そういう情報は知らなければ損するだけなのです。
社会人にとって「無知は罪」というのはそういうことです。
また、いい情報を得るうえで、いい人に出会うということも大切です。このご時世、情報は溢れています。溢れたまんまスマホの中に情報が流れ込んでくる。すると、なにを選んだらいいのかわからなくなって「思考停止」してしまう人も多いでしょう。
そのときに選ぶ基準は「友だちが言ってたから」「奥さんが言ってたから」「会社の同僚が言ってたから」というように、まわりの人間関係によって勝手にフィルタリングされていきます。
だから、いい人に出会わないといい情報は入ってこないのです。
いい人に当たると、次もいい人に当たる
少し話はズレるかもしれませんが、19歳から仕事をしてきていろんな人に出会ってきました。そこで気づいたのが「いい人に出会うと、芋づる式に次もいい人に当たる」ということでした。逆に「ちょっとどうなんだろう?」という人に出会うと、その後もどんどん変な道に入りこんでいく。
人間関係というのは、いい人とはフィーリングが合って勝手に続いていくし、ダメな人とは勝手に切れていく仕組みになっています。「性格が悪いけど仕事ができる」というような人とは、ぼくはやっぱり続かないのです。
エンジニアやデザイナーで、すごくスキルが高い人がいたとしても、やっぱり礼儀がなかったり、コミュニケーションが円滑でなかったりすると、肝心な会話はできないし、その後も長く続きません。エンジニアやデザイナーであっても、優秀な方は最低限の部分は絶対にクリアしてるものなのです。
ぼくが会社の「採用面接」で見ていること
「面接でどういう人を採用するのですか?」と聞かれることがあります。そこでぼくが見ているのが、礼儀やマナーなど「社会人としての最低限の部分」です。
ハッキリ言って30分なり1時間なりの面接でその人のことはわかりません。その人の何十年間を面接と職務経歴書で判断しようとしても、まず無理。そんなのは「わからない」のです。
よってぼくは、ダメなところだけを基準として持つようにしています。「スキルを持ってる/持ってない」ということよりも「人として最低限のことができているかどうか」。ビジュアルが怪しかったり「面接なのにこんな格好で来るの?」という人はNGです。
また、受け答えする中で、全然目を見て話さない人も落とします。目を見て話さないというのは、相当自信がないのでしょう。「フェイストゥフェイス」という言葉があるように、人と人は目を見て話すから信頼が生まれるのです。
食い気味で会話をする人もNGです。人が話している途中で「ハイハイ、ハイハイ」という人は、作法を知らないなと思ってしまいます。
これが20歳だったらまだ改善の余地がありますが、30歳だったら「これまでどういう10年間を歩んできたんだろうな」って、勝手にぼくは想像してしまうのです。そういったことを教えてくれなかった上司や環境って、やっぱりよくないと思うのです。
「ダメな基準」に当てはまらなければ採用する
面接の30分や1時間では人を判断できません。
よって、上記のような「ダメな基準」にさえ当てはまらなければ、採用します。そして、一緒に仕事してみてダメだったら、お互い「ダメだったね」と納得できるでしょう。
ぼくは採用するとき「いい人を選ぶために、ものすごくフィルターをかける」ことはありません。「最低限のことができている人はとりあえず採用してみて、合わなかったら自然と離れる」というかたちをとっています。
ひとつ難しいのは、人の相性というのは恋愛や結婚みたいなものなのです。合わなかったからといって、どちらかが「ダメ」ということではない。人間としてはお互いイケてるけど「その時点で相性が合わなかっただけ」ということもある。そこは履き違えないようにしないといけません。1回仕事してダメだったけど、どこかで再会してうまくいくということもめちゃくちゃ多いですから。
「人」が一番レバレッジが効く
人に教えることは「あたりまえ」のことと言いましたが、ビジネスや経営の面から言っても、人に教え、育てることはものすごく大切です。
ぼくは今まで、上場したときのお金も含めて、何にお金をかけてきたか。それはやっぱり、人にお金を使ってきました。いいか悪いかは置いておいて、メシに連れていくとか、お金に困ってたらお金を貸すとか、人に対してすごくお金を使ってきた。
なぜ人にお金を使うのか? 平たく言えば、それは「人材」というものが、いちばんレバレッジが効くからです。金融商品や不動産など、いろんな「投資する」対象がありますが、人というのがいちばんレバレッジが効く対象なのです。
「人」と言っても、もちろん1日8時間の稼働の中で「言われたことしかやらない」人もいるかもしれません。言われたことすらできない人もいる。でも、言われたこと以外の「プラスアルファ」を自発的にやる人もいるのです。ここは上司やまわりの人が「教えていく」ことでどんどん伸びていきます。その成長の度合いによっては、めちゃくちゃレバレッジが効くと思っているのです。
最終的にすべて「人」である
ぼくらは、社員も、クリエイターも、クライアントさんも、ユーザーも、株主も、全部「人」なんです。だから、UUUMのビジネスはあらゆる方面に配慮しないといけない。「人に対してのバランス感覚」が相当よくないといけません。人に対するマネジメントがブレ始めると、一気に崩れていくので、気をつけないといけないとつねに気を張っています。
UUUMは商品も「人」だし、これだけ人に関わる仕事はなかなか珍しい。「鎌田さんとこって何やってる会社ですか?」と聞かれると「ユーチューブにまつわる会社なんですけど、アナログな会社です」と答えています。ユーチューブだからITっぽいんだけど決してIT企業ではないのです。
人に育ててもらった。だから育てる
ぼくはやっぱり、人に育ててもらいました。歴代の上司はみんなぼくのことを叱ってくれたし、育ててくれたと思っています。
いま自分が会社のトップという立場になってみて、あらためて思うことがあります。それは「人を叱ることって、ものすごくイヤなものだ」ということです。朝から「よし、今日は何を叱ろうかな」みたいな意識の人はいないはずです。
できることなら穏和にいきたいし、できることならイヤな会話はしたくない。ただ「いま言わないと、また同じことが起こる」とわかるから、それを防ぐために叱るのです。それでも、やっぱりイヤなものです。ただ、それでもぼくの上司はみんな叱ってくれた。ものすごく感謝しています。
ぼくは、本当に人に恵まれてきました。そのおかげで今、生きています。だから、これまでの上司やまわりの人がぼくを育ててくれたように、ぼくもなるべく教えたいし、育てたい。あたりまえのこととしてやりたいと思っています。
社員が辞めるとき、ぼくはこう伝えます。
「ぼくの携帯番号はずっと変わらない。UUUMがある限り、UUUMのメールアドレスも変わらない。だからいつでも連絡してこい」と。
社員が辞めるときはみんな「今日までお世話になりました」とあいさつをしに来てくれます。でも、ぼくはそういう会話はしたくない。明るいゴールがないからです。だからぼくは「あいさつはいいよ」と言っているのですが「いやちょっと、どうしても」と言われてしまう。そこでぼくは「いいよ、いいよ。マジで2、3ヶ月後に会うから、普通に。またね」と言うのです。
退社のときの会話は、かならず「またね」で終わらせる。ぼくが決めているルールのひとつです。
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