課題に追われて本を読む時間がない……。

 コロナ禍の大学生のレポート事情が少し前に議論になっていましたね(今も現状は変わっていないのかもしれませんが)。これだけのものの提出が課されている。これを多いと少ないとするかは個人に依るが、現状を知らせたかった、というような投稿がされたことを記憶しています。いろいろなところに配慮された意義のある投稿だったと思います。

 筆者も昨今の情勢下の大学生のレポート事情、大学での学びをめぐるさまざまな問題については、いつもいろいろと考えてしまいます。日常の中で度々、ふと、「この現状はいけないんじゃないか」と頭によぎります。もちろん大学の運営側も含めて特定の誰かを責めるということではなく、大学教育を担う者全体でもっと問題意識を持つべきではないかと。

 詳しくは把握できていないのですが、大学生の方たちも9月以降の授業については通学での対面授業へと移行しているコマもあるように見受けられます(もちろんすべてではないですが)。対面が良いか相応しくないか、この問題も一言では片づけられないですね。ただ個人的に思うことは、週に一度でも自分と同じ境遇で学ぶ学生と会えるということ、実際話をしなくても同じ空間にいてその空気感を共有するということはとても大事なことのように思います。すべてのことに共通することだと思いますが、恐怖感を煽るよりも具体的な対策を示し、それを実行すること。今、上に立つ者がするべきことはそれに尽きるような気がします。

 話が逸れましたが、今日お話しすることは「課題に追われて読書ができない」という話です。当たり前のことですが、大学での学びは自ら、自ずからするものです。わかりやすく言えば、〈主体的〉という言葉で形容されるのでしょうか。課される課題はその副産物です。「ここまではわかってるよね」、という確認にも似たボーダーライン的なものだと思っています。もちろん課題にもいろいろあって、学生個人の考察を促し、それを深める契機となるような優れた課題もあり、それがきっかけで大学での勉強が軌道に乗るということもあるでしょう。しかしやはり大学での学びは自らの好奇心が元となって、自分の興味が一番の動機となって気が付いたら進んでいるものだと思います。

 コロナ禍の大学生のレポートをめぐる悲鳴は、今思うと、この自らの学びが損なわれるという叫びだったように思います。レポートのために読書をする、課題のために勉強をする、そいういう状況が普通のことになって、自らの学びの時間を確保することが難しい。そのような状況が実は背景にあったのではないか……。時間を経て当時を振り返ることができるようになった今、そのように感じます。このことは実は大学教育をめぐる根本の問題と不可分のように思います。コロナ禍で浮き彫りになっただけで、この問題は実はずっと潜在的にあった問題ではないかと。大学での学びは「課される」ものなのか、高校までの勉強と大学での勉強の違いは何か、自ら学ぶとはどういうことなのか。そういうことがこの問題に集約されているのではないでしょうか。

 レポートや課題に取り組むことが第一になり、読書をする時間がない。こんなにもったいなく、かなしいことはないと思います。ではどういう対策が必要なのか……。私にはこの答えはまだ出せません。ですが一つ言えることは大学教育に携わるものが、この深い根を張った問題を共有し、問題意識を持つことがまずは必要なことかなと思います。

(たのしい学びの期間になりますように……。おわり)

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