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「魔法のスパイス」
「おーい、荒れてきたから、そろそろ上がったほうがいいぞ。」
近づいてきた船の上で、江の島の源さんが叫んだ。源さんは、漁師のかたわら、最近、磯渡しをしてくれてるようになった、気の良いオヤジさんだ。
「どうだ、今日は、まただめか、おかしいな、魚はいるんだがな。」
「まぁそのうちデカいのを釣って見せるから。来週またくるからね。」
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物心ついた頃から釣りザオで遊び、ヘラに夢中になり、磯に出て早十年。
いまだに、魚拓物に出会ったことがない私は、神田で、女房と二人で、小さなインドカレーやを営む、中年のオヤジ。
店の方も釣りと同じく、いま一つパッとしない。しかし、毎週のように釣りに行く私に家族は、とくに文句を言うこともなく、むしろクロダイの外道として釣れてくる、カワハギやメバル、アジなどを楽しみにしている始末だ。
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日曜、朝、四時、一路、江の島へ。
いつものように戸塚でエサを買い、もうすぐ藤沢市内という所まで来た時、左側の木立の中に(こませ堂)と書かれたカンバンを見つけた。
「えーっ、エサ屋。」と思わず車を止め、百メートルほど引き寄せられるように、フラフラと歩いて戻ると、林の中の細い小路の奥に(ぜったい釣れる、こませ堂)と書かれた、うす暗く、しかもあやしいカンバンが目に止まった。
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「そうか、毎回同じエサで釣れないんだから、今日は変えてみるか。」
おそる、おそる、店の戸を開け、中の様子を探ると、そこにあるはすの、おなじみの集魚剤や、オキアミ、うき、ハリ等の物が何も無い。
「どういうことなんだ。」
うす暗い店の奥に向って「あのーだれかいませんか。」と声をかけてみる。
すこし間をおいて「こっちに来なさいよ。」の声。
奥の机の前にだれかいる。近づくと、初老の男が老眼鏡の上からニヤリと笑い
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「何を釣るんだね。」
「ハァ、クロダイなんですけどね。」
「最近、釣れてないね。」
「まぁボチ、ボチですけどね。」
「いいや、全然、釣れてないよね。」
「何で決めつけてくるの。」
「ハッ、ハッ、ハッ、私にはわかるんだよ。ここに来る人は皆んな釣れてない人ばかり、釣れてる人は自信を持って、エサを用意し、釣り場へ急ぐから、こんなうす暗いカンバンなんか目に入らず通り過ぎてしまうもんだよ。あんたに迷いがあるから、このカンバンが目に入った、ということさ。」
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少しムッとして
「エサ、どこにあるの、急いでいるんだけどね。」
「高いよ、ウチのエサは。何しろ二十年かけて、インドのスパイスをブレンドした集魚剤だからね。」
老人は脇の小箱から、小さなビン
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を取り出し、「こませに一回ふりかければ、クロダイ一匹、二回なら二匹、一ビン三十匹ぐらい釣れるはずさ、一回で使い切ってもいいし、三十回に分けて使うのも、あんたの自由さ。どうだね、一本、十万円。」
「えーっ十万円、それに何で集魚剤が、インドのスパイスなの。」
老人は被っていた毛糸の防止と老眼鏡をとり、小ビンをじっと見つめ、低い声で語り出した。
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「三十年ほど前、インド各地を放浪していた頃、海辺の村で、カーマという一人の漁師と仲よくなった。彼は毎日、海に出て、マグロを追いかけていたが、なかなか釣れなかった。小さい頃から釣り好きの私は、日本には、集魚剤で魚を寄せて釣るという漁法があり、魚を追いかけるより、寄せて釣った方が良いのではないかと、アドバイスした。しかし、その村には集魚剤の材料になるような物は、何も無かった。
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ただ、クローブ、クミン、コリアンダーと言ったスパイスはふんだんにあった。」
私は、ハッとした。サナギなんて決して、いい匂いではないし、ヘラのエサにはニンニク入りのグルテンもある。
何十種類もある、インドのスパイスの中には、魚が好むものもあるはずと考えた事があったからだ。
ポケットに入れた手を机に置き、身を乗り出した私に、老人は、まるで内緒話のように、一段と声を低くして続けた。
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「ある日、私が作ったカレーを食べたカーマは苦笑いして言った。『日本人のカレーは、私達、インド人には、うけないね。』 彼は残ったカレーを海に捨てた。しかし魚にはうけた。まるでオキアミをまいたように小魚が寄って来た。それからマグロを寄せるのに長い時間はかからなかった。彼は一匹何十万もするマグロを釣り、大金持ちになり、マグロ御殿を建てた。
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釣り好きの私は、日本に戻り、さらに研究を重ね、ついに、クロダイ用のスパイスのブレンドを完成させたというわけさ」
「でも、十万は、ちょっと。」
「ハッ、ハッ、ハッ、このスパイスはな、魚だけではないんだ、たとえば、客の入りの悪いレストランとか、よくあるだろう。そう、集魚だけではなく、集客にも効果があるのさ。」
集客という言葉に気持ちがグラついて、思わずサイフの中身を考えると
「そうだ、店の支払いの金を持っているんだ。なんとか十万だせるぞ。」
―
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小潮の三日目、潮は動かない最悪のコンディション。源さんが迎えに来た。
「ほぉー、やったね、いい型だよ、それも三匹。」自分が釣ったように喜んだ。
「三回ふりかけたからね。」と一人言。
それから私は、テレビの釣り番組や、雑誌などで、名人として、すっかり有名になった。
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さえなかった神田のカレー屋も、例のスパイスで大繁盛。
―
「こんにちは、例のスパイス、欲しいんですけど。」
「あー、あんたか、釣りも、カレー屋も、ずいぶん有名になったね。だから十万では、売れないよ。百万円だね。」
「えーっ、百万円なんて払えないよ。」
「じゃあ、売れないね。」
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私は考えた。
「まてよ、店の売り上げは、毎月百万円以上、上がっている。女房の機嫌も良い。また元の生活には戻りたくない。」
言われるままに、百万円。
そして、次は
「えーっ二百万円。」
―
それから数カ月後、あれほど繁盛していた、神田のカレー屋がとつぜん閉店した。
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名人と言われて、思いのままにクロダイを釣った彼の姿も、江の島の磯から消えた。
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あとがき 大野 将太
帰省した際にいろいろと漁ってると、つり人の雑誌の間にこの原稿用紙が挟まっていた。
2008年頃のものだと思われるが、当時、親父が何かを書いているというのはおぼろげながら覚えていたものの、内容については知る由もなかった。
つり人の取材でこういった小話のフィクションを入れてほしいと依頼があったのだろうか。
なにより父がペンを握っている姿を見たことがなかったので、正月に思わずこの場に転記した。物語の終わり方が、読み手に委ねられていてアバウトなのが、なんとも父らしい。
最後にカレー屋もなくなり、釣り場からも消えたのはなぜなのか、読者がいたら見解を聞きたいと思う。
また、作中にも現実にも存在する源さんは、僕も何度かお世話になったことがあり、渡船のときもそうだが、ビッグスクーターを借りて江の島や鎌倉あたりを周遊したことがある。当時、番屋で犬と亀を飼っていたのだが、おっかない源さんとは裏腹に親しみが湧いた。
漁業を生業としながらも、そのかたわらでヨットスクールの教官や刑務所の服役囚の更生などもしていたと聞く。
漁師の仕事柄、怒号が響くのを容易に想像できるくらいには気性が荒いのだが、作中にもあるように中身はとても気の良いオヤジさんなのだ。
海はそれほど危険が多く、命を張って日々を臨んでいるのが窺える。
インスタグラムで2021年頃の写真を拝見した限り、今も元気に船に乗っているそうだ。本名は湯浅一春さんだが、源さんのほうがはるかに知名度があるあたり、地域に愛されているが伝わってくる。船の名前は源春丸、江の島では有名人だろう。また行く機会があればぜひ会っておきたい人物である。
お読みいただきありがとうございます。
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![インドカレーカーマ](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/116872339/profile_32e6fc13740929423cdef14dd9cbd975.png?width=600&crop=1:1,smart)