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モノにしてから、モノ申す。
これまでの人生の主要な決断を振り返ると、知らず知らずのうちに、我が人生の流儀となっている考えがある事に気が付きます。
4月に上京してきてやっと、前々から習っていたベリーダンスを再開しようと、5月辺りからいくつか体験レッスンに通い、ようやく今月からある教室に通いはじめました。
他のダンスがそうであるようにベリーダンスにも色々流派があって、新しく通い始めた教室のスタイルは、今までわたしがあまり経験した事のないジャンルで、悪戦苦闘、四苦八苦。
数ある流派の中でもテクニックが難しく、早い動きも多い。
ゆったりベリーダンスに慣らされたわたしには、ついていくだけで精一杯。
「わたしはこんなにベリーダンスが下手くそだったのか」とレッスン後の動画を見る度に自信がなくなる。
だったらもっと得意な流派のベリーダンスで、もう少し経験年数の浅い生徒が多い教室に通えばいいのに、それをしないのはなぜか。
その理由はいろいろあるけれど、一つには「テクニックを身に付けた上で、ダンスはテクニックが全てではない」と言いたいから。
テクニックをモノにするのは、大変なことです。地道な練習が欠かせません。
そのテクニックを身につけずして、「いや、でもダンスはテクニックだけじゃないから」と言うのはどうも、どうも、説得力に欠ける気がしてならないのです。
わたしは、「お金だけが人生じゃない」と思っているけれど、かといってそれを、あまり人に向かって声を大にして言うことはしません。
何故って、お金を稼いでいない人が、「お金より大事なものがある」と言うのは、僻みのように思えるから。
学歴も然り。
学歴があるからこそ、勉強が全てじゃないと胸を張って言えるけれど、そうじゃないと、結局負け惜しみなんじゃないかと思ってしまう。
もちろん、他の人が「お金が全てじゃないよね」なんて言ってたとしても、「あ、負け惜しみだ」なんて思ったりはしません。
その人がその言葉を発するのには、色んな事情や経験が加わっているのでしょうから。
あくまでも、自分の発言に対してだけ。
どうしても、僻みっぽいような気がしてしまう。
そもそも私自身が、学歴や収入や何かに対するスキルなど、他人と比べることでしか価値を生まない指標に囚われがちなのかもしれない。
だけどそれすら、「わたし、お金とか学歴とか関係ないんで。」と人前で発言することすら、どこか、「本当はそれが欲しくてたまらない」と言っているのと同じなんじゃないかと思う。
多分、本当に、本当に気にしていない人は、きっと何にも言わないだろうから。
でも、まぁいいんです。
これが何かを達成するためのモチベーションやエネルギーになっているのも事実だと思うので。
「ハングリー精神」「反骨精神」
もう死語でしょうか?
だけど「自己実現」とかよりもっと、今の(今までの)私を端的に表している言葉だと感じています。