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日本人が知らないUSAIDの歴史(その1
Twitterだと読みにくいというコメントがあったのでこちらに転載
日本にはインテリジェンスの専門家がいないので誰も説明しない、できない。なので代わりに、長くこの業界を見ている人間として、歴史的な流れを簡単に解説。
いつものように、大事なのはその出発点と方向性を認識する事。
◆米国の対外支援の歴史
帝国主義の欧米列強は長い間、脱植民地化や共産主義の反乱の脅威を未然に防ぐ手段として「開発」を利用してきた。インフラの構築、警察の訓練、農業改革、工業化・近代化は、植民地支配と帝国支配の特徴であった。
戦後、植民地国家は、荒廃し衰えた欧米列強に対し「脱植民地化」と「近代化」を目標に掲げた。ソ連はこの機に乗じて共産主義を拡大しようとした。
こうした状況下で、新興勢力の米帝は孤立主義を放棄し、世界情勢に介入して新たな依存関係を築こうと画策していった。
1951年5月24日、トルーマンの議会での発言『共産主義による世界征服の夢を不可能にするため、必要な軍事力と経済力を構築するために他の自由主義諸国を支援する』からも米帝の「対外支援」の手段と意図が明確に示されている。
米ソ両陣営が行う中小国への「軍事侵攻」を含む介入の陣取り合戦は過熱し、「軍事面」での競争は核戦争の危機を高めた。そのため、競争は中立の立場を掲げる第三世界に対する「開発競争」や諜報機関を使った「インテリジェンス工作、世論工作」へと移行していった。
◆米国の初期の対外支援
ところで、フォロワーの皆さんは「ヘルマンド渓谷」というのをご存じだろうか?
国際政治によっぽど詳しい人なら聞いたことあると思うが、今回はアフガニスタン南部にあるこの地域のお話を中心に掘り下げる。
アフガニスタンの南西部に位置するヘルマンド渓谷とその支流地域は、アフガニスタンの国土のほぼ半分を占めている。
2000年以上前は耕作地帯だったが、水路は異民族に破壊されたままで大部分が乾燥しており、今では放牧された家畜がその少ない草を利用するだけとなっていた。
第一次世界大戦後に独立を勝ち取ったアフガニスタンは自国の近代化を進めた。
1937年、カンダハールからパキスタンに続く道路の整備と水路の改築・延長を日本に依頼した。ところが途中で第二次世界大戦が始まりプロジェクトは中止になった。
第二次世界大戦後、灌漑プロジェクトは再開するが、日本ではなく米国が担うことになった。
アフガニスタン政府は、第二次世界大戦中にインドに駐留していた連合軍に物資を供給して得た利益をもとに、当時1億ドルの準備金を積み立てており、その資金を使って自国の近代化政策を進めることになる。
具体的には、南部に電力供給と貯水用のダムを建設し、広大な乾燥地帯を開拓する計画で、道路や灌漑インフラを整備し、農業移住者を受け入れる計画だ。
このプロジェクトを請け負ったのは、米国の象徴「フーバーダム」の建設を担当した6社のうちの1つ「モリソン・クヌーセン社」だった。
1946年、米国はヘルマンド渓谷で大規模な灌漑・水力発電プロジェクトを開始し、アフガニスタンの近代化に取り組んだ。
しかし、結論からいうとこのプロジェクトは失敗することになる。
1952年、アフガニスタン最長の川であるヘルマンド川の流域に「ダーラダム」が完成し、その後「カジャキダム」も開通した。
これらのダムは南部全域に広がる灌漑プロジェクトの網の目の中心となるはずだった。200キロ以上に及ぶ運河の網目構造が、砂漠を大規模な農地に変えることになっていた。
ところが、ダムはすぐに問題を引き起こした。
1954年、表土のすぐ下にある勾配の無い不浸透性の岩石層が適切な排水を妨げ、地下水位が地表近くまで上昇した。その結果、地中の塩分が地表に達し、畑は白い塩の結晶で覆われることとなった。
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(画像は同じように灌漑で塩害の被害が出たウズベキスタンの畑の様子)
ダムが完成してから、たったの2年で発生した塩害。
3年目には、その被害はダルウェシャン、セラジ、タルナック、ガルムセル、シャカンスール、アルガンダブ渓谷へと広がっていった。
当初、アフガニスタン政府も米国もこの問題を軽視していたが、その評価に反して、塩害の被害地域は急速に拡大していった。
1956年までに、ヘルマンド渓谷の灌漑可能な土地の35%以上が、塩類土壌とアルカリ土壌の問題で、深刻な影響を受けた。
灌漑がおこなわれた土地で小麦を作っても、その平均収量は年々減少していった。
被害を受けたヘルマンド渓谷周辺の土地は、ほとんどの作物に適さない塩類・アルカリ性土壌の土地になり、当初の目的だった小麦の栽培には適さない土地になった。
しかし、アヘンには適しており、のちにCIAはこれを利用。麻薬ビジネスで工作活動の資金を捻出していくことになる。
アフガニスタン政府は当初予定していた開拓地の農作物からの収益や外貨の獲得には至らず、支払いのみが増え続けていた。
1956年6月末の段階でプロジェクト費用は6300万ドル近くになっており、政府の総支出の20%がこの開発につぎ込まれていた。
塩害などの問題に対処するために新たに結んだ1950年、1954年の追加契約の費用は、米国輸出入銀行からそれぞれ2100万ドルと1850万ドルの融資でどうにか賄った。しかし、被害はどんどん拡大していった。
カルシウムなどを撒いて土壌を改良したり、塩分を除去するための排水インフラを新たに整備するには膨大な時間と労力がかかる。
アフガニスタンは開発の罠にはまり、借金は膨らむばかりであった。
アフガニスタン政府は、季節的に国内を出入りし、領土や社会的なルーツを持たない200万人以上の遊牧民を定住させることを目的としていたが、その狙い通りにはいかず、結果として外国からの資金にますます依存する操り人形のような国になってしまった。
プロジェクトの失敗は政府だけでなく、農民にもしわ寄せがいった。
入植者には生活していけるだけの広さの土地を提供する必要があったが、質の悪い土地では自給自足すらできず、彼らは農地の維持費や借金の返済さえ困難な状況に追い込まれた。
伝統的な農家も、プロジェクトの圃場整備のために先祖からの土地を手放したりしたわけだが、そういった保障の支払いは約束通りには行われなかった。
こうした新たな貧困層の創出や農民の不満やが、反米のタネとなり、のちの革命に繋がる事にもなって行く。
(その2 へつづく