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[超_間]は禅である
[間]から出現する[超_間]について、noteで考察を続けて来た。
前回は、[超_間]の中にいる時の身体感覚について書いてみた。
類推するならば、[超_間]の中にいる時、
[超_間]を体験している時の感覚は、
[ゾーン]に似ているのかもしれない。
[ゾーン]とは心理学者のミハイ・チクセントミハイが提唱した概念である。
アスリートが「ボールが止まって見えた」
「体が勝手に動いている」などと表現するように、最高のパフォーマンスに繋がる最高な精神状態と言われている。
体験者が、「物事が自動的に進む流れ(Flow)の中にいるようだ」と語ったことから、
「フロー状態」と呼ばれるようになったらしい。
[ゾーン]🟰 自分の能力を高めることが目的
[フロー]🟰 自分の成果や評価に関心が無い
と、目的の違いとして分類している記述もある。
[超_間]は[ゾーン]から[フロー]へ移行し、その先へと移行した状態なのかもしれない。
その先とは何なのか?
それは、禅である。
禅が求めようとしているものを、私はイズムと名づける。イズムは一つの反哲学、思考をもたないひとつのあり方である。イズムの師は岩、樹木、ハマグリである。
知覚を抑え、論理的、言語的、二元論的思考を抑えること、これが禅の本質、イズムの本質である。これがUn方式である。知能的でなく、機械的でなく、まさにUn、阿吽の呼吸の吽である。
「ゲーデル、エッシャー、バッハ あるいは不思議の環」ダグラス・R・ホフスタッター著
伝統芸能薩摩琵琶の[間]には、
sein(ザイン)としての[間]と、sollen(ゾルレン)としての[間]が存在する。
seinとは現実であり、sollenとは当為(理想)である。
seinの[間](存在としての[間])を裏切ることによってのみ、現実を超えたsollenの[間](当為としての間)を甦らせることができる。
そして、そのsollenの[間]の中から[超_間]が出現する。
[超_間]は禅である。
全体論を論理的極限まで推し進めたものである。
全体論を超えた存在である。
[超_間]の中にいる時、自他の境界は消失する。それは何故か?
[間]の中で自己が拡張し、限界に達すると自他の領域があいまいになり、[超_間]の中で消失するのだ。
[超_間]の中には、
始まりも終わりも存在しない。
[超_間]は、二元論の終焉であり、悟りである。