
僕にとってのコーヒーの味。
こんばんは、「カクシアジ。」です。
今日は僕の好きなものを少しだけ紹介したいなと思います。
コーヒーを飲む人をよく見かけますが、皆さんは「コーヒー」お好きでしょうか。
僕はいつもブラックで飲んでいます。
美味しいですよね。
コーヒーを好きになってまだ日は浅いかもしれませんが、僕なりの真摯な気持ちをここに綴ってみました。
お好きなコーヒーを片手に読んで頂けると幸いです。
コーヒーは苦い
コーヒーにはいろんな種類があって、人それぞれの好みがある。
コーヒーは苦くて飲めやしない。
かつての自分自身がそうであったように、そう思う人もいるだろう。
味ではなくても、その馥郁たる香りを好む人は多いかもしれない。
「僕はコーヒーが好きだ。」
豆を挽き立て、お湯を注いで成分を抽出する。
そして淹れたてのコーヒーをカップに注ぐまでのその過程すら苦に感じないのは、おそらくその一つ一つの動作によって、仕上がりのコーヒーの味が大きく変化することを知っているからだ。
そして、それが実に楽しいということを僕は知っている。
コーヒーとの思い出
「僕自身のコーヒーとの思い出」などに興味がある人はおそらくいないだろうが、もし共感してくれる人がいるものならば、コーヒーを片手に昼の公園で価値観を共有し、感慨に浸りながら語り合いたいものである。
しかしその時間を楽しむのであれば、時に片手にバターパンを持つのは愚行である。
コーヒーはその時間を作り出すものであって、忙しない朝にパンを流し込もうとするならば、それほどまでに無駄なものはない。
まず、僕はコーヒーとの出会いを記憶していない。
正確に言うならば、まだ幼子だった僕にとって、その価値観が形成される以前に、その黒い液体に対する拒否反応を起こしていたからだ。
ただその当時の記憶として残っているのは、ほんのり味見をした父のコーヒーカップが、舌に触れたその瞬間から、子供ながらにその絶望を体験したのは言うまでもない。
こんなものを美味しそうにするりと口にする大人たちは、普段どれほどの泥水をすすっているのだろうかと勝手に哀れんでは、物思いに耽る幼子を気取っていた。
僕がコーヒーを体内に入れることを許し始めたのは、高校生になってからのことである。
同じクラスだった友人の、窓辺の席で缶コーヒーを飲む姿に魅了されたのは、同じく並んでコーヒーを飲まない理由にはならなかった。
コーヒーが飲めるようになったと言うよりはむしろ、一種の憧れと言う感情に左右された愚行とも言える。
黒い液体を無情の精神で澄ました顔とともに体に流し込んでいた。
それが始まりだったのだ。
ただ、最初のコーヒーは、黒色ではなく茶色であったことに許しを乞いたい。それはコーヒーと言うには、自身への感情とともに少し甘すぎた。
「微糖」の「微」を消さずにはいられなかった。
が、どうすることもできなかったのだ。
人間の体は不思議なもので、耐性が付き始めたことをきっかけに、茶色い液体は徐々に黒色へと変わっていった。
それから幾多の人生の起伏をコーヒー片手に過ごしてきた僕にとっては、コーヒー一つに様々な感情を抱いている。(またいずれ話すことにする。)
そうして今に至るのだ。
コーヒーの知識
コーヒーには様々な種類があり、実はそれらを楽しむのには無限大の可能性があることを知っていただきたいのです。
まず、出来上がるコーヒーは豆の抽出方法の違いによって大きく2つに分類されます。
一般的に家庭で飲まれる「ブレンド」「アメリカン」「カフェオレ」などは「ドリップ式」で抽出されたもの。
また、「エスプレッソ」「カフェラテ」「マキアート」などは「エスプレッソ式」で抽出されたもの。(そのまま飲むとおそらく苦い。)
基本的な2種類の抽出方法があることは知っておいて欲しいのだが、実はコーヒーの種類はこれだけに止まらないのです、、、。
1つのコーヒー豆に対して、それぞれの抽出方法、淹れ方で仕上がりが変わる。
元となるコーヒー豆は、原産地が異なればそれだけの種類があり、それぞれが全て異なる味になることを知っておかなければならない。
つまり、
コーヒーは豆の種類、焙煎の方法、豆の挽き方、淹れ方によって仕上がりは左右されルコとから、それぞれの組み合わせ方によって幾通りにも味の変化が生まれるのです。
コーヒーを自らの手で淹れようものなら、同じコーヒーを二度と飲むことはできないかもしれません。
しかしそのひと時を、儚さや切なさとして楽しむことができたなら、もうすでにコーヒーが日々の生活に欠かせないものになっているのではないでしょうか。
それがあなたにとっての、新たな「カクシアジ。」になることを願っています。