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御前埼灯台|静岡県御前崎市

御前埼灯台(A)|静岡県御前崎市 2022年4月26日

 1874年(明治7年)5月1日に築造。設計はリチャード・H・ブラントン。灯塔は二重円形構造のレンガ造。下部に半円形の附属舎(石造・平屋建)がある。それまで二重円筒構造の灯台は犬吠埼灯台が最初と思われてきたが、2016年(平成28年)に御前埼灯台の外装の塗り替え、内装をヒノキ材に改修する際に二重円筒構造であることが確認され、御前埼灯台が日本で初めての二重円筒構造の灯台であることが判明した。
 フランスのソーターハーレー社製の第一等回転レンズは回転式のフレネルレンズとして日本で初めて採用された。当初の光源は第四重芯灯石油式。1910年(明治43年)に蒸発白熱灯石油式、1917年(大正6年)に電化導入。

 遠州灘と駿河湾の境に位置する御前崎付近は暗礁が多数点在し、親潮が北上する経路であるため潮も早く、航行する船舶にとっては古くから難所であった。1635年(寛永12年)に江戸幕府によって「見尾火灯明台」が現在の御前埼灯台の場所に建てられたが、海上から見える三面部を油障子で囲み中央に油灯を置いた高さ2.8m、四方3.6mの小さいものであった。この灯明台は240年続いたもののこの地での海難は絶えず、南風の激しい3月と9月には必ずと言ってよいほど難破船があり、灯明台の崖下には引き取り手のない遺体を埋葬した無縁墓が並んでいたという。1871年(明治4年)4月8日には灯明台沖のセイゴ根で旧幕府が建造した軍艦の座礁事故が発生。事態を重く見た明治政府は灯明台を高さ5mの台に一辺2.6m八角形の障子張りの灯室に改良し、翌年にはブラントンにより御前埼灯台の建設に着工した。
 軍艦の座礁事故は因幡鳥取藩の将兵350名が東京へ向かう途中で起こったが死者は出なかったが、“沖の暗いのに蒸気が見える、あれは因幡さんの軍船”、“靄(もや)で暗うて因幡さんの船が、迷いましたよセイゴ島”と軍艦沈没を風刺した歌が流行したという。

『燈光 大正5年9月号』より

 1944年(昭和19年)12月7月の東南海地震(M8.0)によって灯塔に亀裂が発生。1945年(昭和20年)には7月24日から三度にわたる空襲と二度の艦砲射撃を受け損傷したが戦後の戦災復旧によって整備された。

木下惠介の映画『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)では戦中の擬装した灯台の姿と、ラストシーンに佐田啓二演じる灯台長とその妻である高峰秀子演じるきよ子が、結婚しカイロに旅立つ娘を乗せた船へ霧笛で門出を祝うシーンで御前埼灯台が登場する。

『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)より
『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)より
映画の劇中歌の碑

旧官舎と附指定の旧回転機械分銅自動巻揚装置(昭和25年製)は2021年(令和3年)に御前崎市初の国指定重要文化財に指定された。

現在は登れる参観灯台として年間10万人が訪れる灯台となっている。

伊豆石を使用した石造のらせん階段
2016年(平成28年)に内装をヒノキ材に改修
灯室へのはしご
1949年(昭和49年)に設置された三等大型レンズ(高さ1.57m)
御前埼灯台の基礎部や階段に使用されている伊豆石
御前埼灯台からの眺め。
映画『喜びも悲しも幾歳月』のラストで、カイロに旅立つ娘が乗る船に灯台守の両親が霧笛を鳴らして娘の門出を祝った。

参考
『明治期灯台の保全』 財団法人日本航路標識協会
『ライトハウス すくっと明治の灯台64基 1870-1912』バナナブックス
『燈光』2020年5・7月号 燈光会

航路標識番号
[国際標識番号] 2495[1] [M6228]
位置 北緯34度35分45.0秒 東経138度13分32.6秒座標: 北緯34度35分45.0秒 東経138度13分32.6秒
所在地 静岡県御前崎市御前崎1581
塗色・構造 白色、塔形、レンガ造[1]
レンズ 第3等大型フレネル式[1]
灯質 Fl W 10s(単閃白光 毎10秒に1閃光)[1]
実効光度 56万カンデラ[1] cd
光達距離 19.5海里(約36km)[1]
明弧 221度から104度まで[1]
塔高 22.47[1] m (地上 - 塔頂)
灯火標高 54.00[1] m (平均海面 - 灯火)
初点灯 1874年(明治7年)5月1日[1]
管轄 海上保安庁
第三管区海上保安本部
清水海上保安部


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すずきたけし
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