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何かを始めることはやさしいが、 それを継続することは難しい。 成功させることはなお難しい_津田梅子

コンビニに置いてある大粒『ラムネ』がマイブームのまるやまです。めちゃめちゃ好きとかではないのに、ついつい口に運んでしまうあのお手軽感と清涼感はなんでしょうかw

昨日に引き続き新札の話題に引っ張られて新札5千円に起用された津田梅子氏の名言に触れていきたいと思います。

津田梅子(つだうめこ)
日本の教育者。現在の津田塾大学を設立。日本女子教育の先駆者と称されています。1871年12月、梅子を含む女子留学生5人が欧米視察の岩倉使節団に随行して渡米。梅子は最年少の6歳であった。ワシントンD.C.のジョージタウンでランマン夫妻の家に預けられた梅子は現地で初等教育を受ける。キリスト教への信仰も芽生え、8歳にときに洗礼を受ける。13歳になった梅子は、私立女学校のアーチャー・インスティチュートに入学。ラテン語、フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学ぶ。17歳で学校を卒業した梅子は、その年に日本へ帰国。翌年、梅子は岩倉使節団の副使であった伊藤博文(1841~1909)と再会。父との確執もあった梅子は伊藤宅に住み込み、通訳兼家庭教師となる。1884年、19歳の梅子は華族子女を対象にした私塾・桃夭女塾の英語教師として働きはじめ、翌年からは学習院女学部から独立して設立された華族女学校の英語教師になる。1889年、梅子は24歳のときに再び渡米。ブリンマー大学に入学し、生物学を専攻。1891年にはオズウィゴー師範学校にて教授法を学ぶ。1892年、梅子は27歳でブリンマー大学選科を修了。同年、日本に帰国。再び華族女学校に勤める。1898年、33歳の梅子は女子高等師範学校の教授を兼任。1900年、35歳の梅子は華族女学校、女子高等師範学校の教授を辞任。同年、「女子英学塾」(現:津田塾大学)を東京麹町区に開校し、塾長となる。華族平民の別のない女子教育を志向して、一般女子の教育を始める。女子英学塾は、それまでの行儀作法の延長の女子教育とは違い、進歩的で自由なレベルの高い授業が評判となった。1903年4月には第一回卒業式を行い、8名の卒業生を出す。塾の創業期に健康を損なった梅子は、塾経営の基礎が整うと54歳で塾長を辞任。鎌倉の別荘で長期の闘病後、1929年8月16日、脳出血のために死去。津田梅子氏は64年の生涯を閉じました。


何かを始めることはやさしいが、 それを継続することは難しい。 成功させることはなお難しい


日本女子教育の先駆者として活躍された彼女の言葉だからこそ重みを感じます。まずは思い立ったらすぐに行動に移す。この一段階を上ったら次は継続し続けるフェーズ。三日坊主という言葉が浸透するくらい継続し続けることは容易くなく何かとやめる理由をつけて継続を断念する人が多いです。

そして、ただただ継続すればいつか成功するかといえばそうではありません。継続しながらも、どのようにしたら成功できるのかを必死に考え続け、絶えずそれをチャレンジし続けて、ようやく一握りの人が成功できるのだと思います。

新札デザインに起用されて初めて彼女の経歴を深く調べましたが、今から100年以上も前に行動をし、成功した人が、現代で成功をしている人たちと同じ、継続する大切さを伝える言葉を残していると思うと、自分は何をするべきか答えは明白であります。

このnote更新も引き続き毎日更新を継続していきますのでよろしくお願いします。

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