目玉焼きにケチャップ
幼い頃、目玉焼きにはケチャップ派だった。しかしそれに意味はない。
親が出してくれる目玉焼きには、必ずケチャップがかかっていたからという理由だけ。僕にとってはそれが当たり前で、それが目玉焼きという食べ物における正解だと思っていた。
しかし成長するにつれて、目玉焼きにケチャップだけが正解ではないということがわかる。
あれは友達の家にはじめて泊まった日。僕はそこで出された朝ごはんに衝撃を受ける。なんと、目玉焼きに醬油がかかっているのだ。
え、醬油?僕はこの時のことを忘れない。
いつもは艶やかに白と黄色と赤色で輝く目玉焼きが、この時は醬油によって黒光りしているのを見て、この家族はおかしい、とまで思った。
それでもここは友達のご家庭。「食べれません」、なんて言うことが失礼だ、申し訳ない、と思う感情が小学生の僕にはあったし、どんな味なんだろう、という興味もあった。
だからあたかも、ふつうの顔して食べてみる。
まあ。悪くない。
いつにもまして塩辛い味にご飯がすすむ。これは今までにない「目玉焼き」の正解だぞ。これには友達も嬉しそう。おかわり、なんかもしてしまった。
そしてこの時僕は気づいた。
あぁ、ウチは朝パン派だったから、ケチャップなんだ!って。
パンと醬油はあまり一緒にならない。決して「合わない」というわけではないと思うけど、一緒にならない。
きっとアメリカと日本の策略なんだろう。パンはケチャップで食えよ、米には醬油だぞって。お互いにその伝統が受け継がれていたんだろう。なんだ、納得なっとく。
そう思った後日、僕は家で言った。
「目玉焼きって、醬油でも食べるんだね」って。
「塩とか、ソースもあるよ」。
なんだって。塩とソース?
「ソースだと、パンにも米にも合うしね」。
僕の考えは甘かった。
ケチャップと醬油がそれぞれに存在するのは、パンでも米でも目玉焼きを楽しむためだと思っていたのに。そんなルールを無視した食べ方があっただなんて。
この時から、僕は目玉焼きの食べ方に正解はないのだと知り、考えるのをやめた。だけど今日も、ケチャップで食べる目玉焼きが好きだ。